今回から3回に亘って多治見を訪れる陶器好きな皆さんに、昔から陶器で栄えてきたエリアをその歴史に触れながら紹介していきます。
多治見は現代では陶磁器の大きな産地として日本でも有数な都市ですが、古い時代から焼物に適した土や地形のおかげで、多治見の市内には焼物で成り立ってきた町がいくつかあります。
それらの町では陶磁器に関わった商売が現在も引き継がれ、昔から陶磁器とともに歩んできたという名残が感じられるのです。それはあなたの多治見の旅にノスタルジックなスパイスを加え、豊かな記憶として刻まれるでしょう。
この連載で紹介するエリアは5つあり、それぞれの町が陶磁器に特化した町ですが、それぞれ作られている焼物の種類が違いユニークです。これについては江戸時代に取り決めをされた「親荷物」という制度に関係しているようです。「親荷物」とはその土地(村などの集落)ごとに生産する焼物が決められ、他所では生産できないようにした制度です。同じ製品の競合による価格下落を防ぐ目的があったといわれています。現代ではもちろんそのような制度はありませんが、こういった歴史的経緯で、今も町ごとに得意とするやきものが引き継がれています。
第1回目の連載では陶磁器産業における商人の町、平野・本町を取り上げていきましょう。
ここは現在の多治見市役所本庁舎を中心として広がっているエリアです。
平野は市役所から南東に坂をのぼったところに位置し、多治見市の中心部を一望でき、その下に広がる本町は今はオリベストリートとして昔の雰囲気を残しながら新しい街並みに生まれ変わっています。ここは江戸時代の終わりごろ(19世紀初頭)から昭和10年代(1940年前後)に隆盛を極め、現在も昔ながらの建物が比較的多く残っています。
多治見市が入っている地区は、明治の初めは17の村に分かれており、一番大きな村が多治見村でした。当時、多治見村の中心部は現在の多治見市役所、本町辺りで、古くからの主要道路であった下街道が通っています。
下街道は江戸時代の主要道路であった五街道の一つ、中山道から分岐し、土岐川に沿って名古屋まで繋ぐ庶民の道でした。(多治見の下街道については以前もこのサイトで触れています。記事はこちらから)
古くは1313年、夢窓国師による永保寺の開創時にも多治見を訪ねるためにこの道を使ったと伝えられています。
この下街道沿いの本町付近はかつて陶器商の町として栄えましたが、どのようにやきものと繁栄していったのでしょうか。
それは江戸時代から明治時代へと移り変わる大きな歴史のうねりと、その時代を見事に駆け抜けていった商人たちが登場したことによります。
今回はこの時代にフォーカスしていきましょう!
江戸時代は幕府によって誰もが自由にものを売ることはできないよう統制されていました。
多治見が位置する美濃は尾張藩の支配下で、ここで作られた陶磁器は藩の生産物とされ、特許を持っている尾張(名古屋)蔵元からのみしか他の地域に販売できませんでした。つまり多治見からは直接販売することはできないようになっていました。しかしながら江戸時代も終わりに近づいてくると、幕府の力が弱くなり、商人、庄屋などの一般人が力をつけてきました。そしてここ多治見でも同じような流れが湧き上がってきていたのです。
多治見市役所から南西に5〜6分ほど歩いていくと、立派な古めかしい門と石造りの塀に囲まれ、ひっそりとたたずむ日本庭園が現れます。すでに屋敷家屋はありませんが、庭園の中心には「明治天皇御駐輦地」と書かれた大きな石碑が建てられています。また手を清めるため龍口が据えられた手水舎があり、かつて素晴らしい姿をしていただろう雰囲気を醸し出しています。
こここそが多治見史の中でも現在もその名が語り継がれる西浦家の存在を証明する史跡なのです。
(ちなみにこの庭園にあった屋敷は1917年京都嵯峨野の宝筐院(ほうきょういん)に移築されています。)
こここそが多治見史の中でも現在もその名が語り継がれる西浦家の存在を証明する史跡なのです。
(ちなみにこの庭園にあった屋敷は1917年京都嵯峨野の宝筐院(ほうきょういん)に移築されています。)
多治見村で代々村役を歴任してきた西浦家では、2代目円治の時に窯元への薪の販売を始めた流れで、美濃焼の仲買を行っていました。2代目円治は美濃焼を自由に販売できないかと模索していたのですが、尾張藩に反対され、中々かないません。代替わりした3代目円治も「美濃焼の自由販売」の目的を果たすためさらに奔走します。そしてとうとう尾張(名古屋)蔵元の資格を取り、美濃で生産される陶磁器の新製品の大半を取り扱い、江戸や大阪に販売店を開き、直接販売することになっていくのです。
折しも時代は天保の改革によって株仲間が廃止され、都市部の特権商人たちの販売独占が揺らぎ、都市部で商売をしたい地方商人たちに追い風が吹いていました。
こうして先述の西浦家だけでなく、多治見の商人たちは陶磁器を日本各地に売り込んでいきます。その販売方法は「旅まわり」と言い、実際に重い陶磁器の見本を持ち、全国を旅して、街ごとの陶器問屋を1軒1軒訪ねて注文を取っていました。
古くはすでに江戸時代後期に「旅まわり」をしていたことが西浦家文書の中に書かれています。その中の西浦大阪支店の記録では、京都・四国方面、出雲・鳥取方面、広島方面と地域ごとに担当者が置かれ、その旅先に定宿があったことが記されています。
また江戸時代後期から始まった陶磁器の「旅まわり」ですが、この時代はまだ鉄道もなく、営業の旅をするのも、請け負った商品を出荷するのも大変なことでした。江戸、大阪方面へ向かうため中山道に出るのも、名古屋方面へ行くのも下街道を使っていました。まさに下街道はこの辺りの主要道路で、下街道沿いの本町に陶器商の大店が立ち並ぶようになっていったのは想像に難くありません。
明治時代に入り、多治見も近代化の波が押し寄せました。近代化で変化したことは数々ありますが、多治見で最も大きな出来事は鉄道の駅でしょう。明治33年(1900年)に名古屋~多治見間の鉄道が開通して以来、多治見駅は街の玄関口となりました。鉄道が繋がったことによって、陶磁器の「旅まわり」営業は容易になり、出荷量は飛躍的に増加しました。記録によると、大正元年(1912年)には陶磁器の鉄道駅陶磁器発送量は全国1位で名古屋をも凌いだほどになったのです。
折しも時代は天保の改革によって株仲間が廃止され、都市部の特権商人たちの販売独占が揺らぎ、都市部で商売をしたい地方商人たちに追い風が吹いていました。
こうして先述の西浦家だけでなく、多治見の商人たちは陶磁器を日本各地に売り込んでいきます。その販売方法は「旅まわり」と言い、実際に重い陶磁器の見本を持ち、全国を旅して、街ごとの陶器問屋を1軒1軒訪ねて注文を取っていました。
古くはすでに江戸時代後期に「旅まわり」をしていたことが西浦家文書の中に書かれています。その中の西浦大阪支店の記録では、京都・四国方面、出雲・鳥取方面、広島方面と地域ごとに担当者が置かれ、その旅先に定宿があったことが記されています。
また江戸時代後期から始まった陶磁器の「旅まわり」ですが、この時代はまだ鉄道もなく、営業の旅をするのも、請け負った商品を出荷するのも大変なことでした。江戸、大阪方面へ向かうため中山道に出るのも、名古屋方面へ行くのも下街道を使っていました。まさに下街道はこの辺りの主要道路で、下街道沿いの本町に陶器商の大店が立ち並ぶようになっていったのは想像に難くありません。
明治時代に入り、多治見も近代化の波が押し寄せました。近代化で変化したことは数々ありますが、多治見で最も大きな出来事は鉄道の駅でしょう。明治33年(1900年)に名古屋~多治見間の鉄道が開通して以来、多治見駅は街の玄関口となりました。鉄道が繋がったことによって、陶磁器の「旅まわり」営業は容易になり、出荷量は飛躍的に増加しました。記録によると、大正元年(1912年)には陶磁器の鉄道駅陶磁器発送量は全国1位で名古屋をも凌いだほどになったのです。
このように多治見の陶磁器産業は街とともに著しく発展したので、陶磁器の恩恵を受けた商人、製造者、町人たちは多治見の地に焼物を持ち込んだ祖を讃えようというアイデアが湧き上がりました。そこで美濃陶祖として加藤景光(1513年〜1585年)を祀るため、本町周辺の高台の平野の金毘羅神社に陶祖を建立しました。明治39年(1906年)に行われた建碑式は、町中が祝賀気分に沸いた、それは華やかな日になったそうです。餅投げ、花火に芸妓の踊り、そしてこの年に始まったばかりの電灯を陶祖碑のまわりに張り巡らせて盛大に行われました。
(以前の記事で陶祖について詳しいことを書いています。記事はこちらから )
こんな話を聞くと、現在のオリベストリートのある本町通りが賑やかだったころを思い浮かべてしまうでしょう!
そんなノスタルジックな気持ちになった方のためには平野・本町街歩きがおすすめです。
本町近辺にはその当時からの建物が残されており、いくつかは現在もお店として活躍しています。それでは街歩きのヒントとしていくつか紹介していきます。
(以前の記事で陶祖について詳しいことを書いています。記事はこちらから )
こんな話を聞くと、現在のオリベストリートのある本町通りが賑やかだったころを思い浮かべてしまうでしょう!
そんなノスタルジックな気持ちになった方のためには平野・本町街歩きがおすすめです。
本町近辺にはその当時からの建物が残されており、いくつかは現在もお店として活躍しています。それでは街歩きのヒントとしていくつか紹介していきます。
時代は移り変わっていくもので、江戸の終わりから昭和初期まで栄えた本町辺りの大店も立ち行かなくなっていきます。
昭和12年(1937年)に始まった日中戦争のため、陶器商の番頭たちが次々と出征してしまうようになりました。番頭たちは「旅まわり」を担当し、それぞれの担当地域へ営業販売の旅に出る役割でしたので、彼らの出征によって商売はどんどん縮小していきました。
その後も太平洋戦争があり、終戦を迎えるわけですが、多治見の陶磁器産業が消えてしまうわけではありません。戦後も新しい世代にバトンタッチし、高度経済成長期に向けて、ますます発展していきます。
本町の大店は多治見の歴史の華やかなページを刻み、その時代の流れを見守ってきました。
陶器商の大店としての役割は終わりましたが、現在はその役割を変え、新しい姿で今もたくさんの人たちを出迎えています。
今でもこのエリアは多治見の人々にとって大事な場所で、これからもその歴史をつないでいくことでしょう。
昭和12年(1937年)に始まった日中戦争のため、陶器商の番頭たちが次々と出征してしまうようになりました。番頭たちは「旅まわり」を担当し、それぞれの担当地域へ営業販売の旅に出る役割でしたので、彼らの出征によって商売はどんどん縮小していきました。
その後も太平洋戦争があり、終戦を迎えるわけですが、多治見の陶磁器産業が消えてしまうわけではありません。戦後も新しい世代にバトンタッチし、高度経済成長期に向けて、ますます発展していきます。
本町の大店は多治見の歴史の華やかなページを刻み、その時代の流れを見守ってきました。
陶器商の大店としての役割は終わりましたが、現在はその役割を変え、新しい姿で今もたくさんの人たちを出迎えています。
今でもこのエリアは多治見の人々にとって大事な場所で、これからもその歴史をつないでいくことでしょう。