前回の記事では多治見の陶器商人についてお話しました。(パート01はこちらから)
今回はその陶器商たちが取り扱っていた陶磁器の窯元の滝呂エリア、笠原エリアのお話です。
この2つの町はともに陶磁器産業で繁栄した町で、滝呂町はコーヒーカップなどの洋食器、笠原町はタイル生産で知られています。
この2つの町は多治見市の南西部に隣りあって位置し、多治見駅から南西方向に車で10分ほど進むとまず滝呂町、そのまま通り過ぎると笠原町にたどり着きます。
滝呂町と笠原町の境目辺りには古墳跡などが発掘されており、古い時代から人々の暮らしがあったようです。1600年前後に瀬戸から陶工が移り住み、滝呂に開窯したという言い伝えがありますが、発掘調査で見つかっている窯跡は中世鎌倉時代辺りに築かれたようで、それより前からこの地域に窯業があったことを伝えています。
かつては多治見駅から笠原まで鉄道路線が敷かれ(笠原鉄道:1928年〜1978年)、蒸気機関車で大量の陶磁器製品が出荷されていました。現在は廃線となり「陶彩の径」と名付けられ、季節を感じられるウォーキングコースになっています。
この小さな町のための鉄道はその産業をますます発展させていきました。
ではこの2つの町がどのように窯業地として発展していったのでしょうか?
洋食器の町 滝呂
江戸時代、地域の生産物に「親荷物」といった取り決めがあり、滝呂や笠原は「白錫」(灰釉徳利)と「あめ徳利」(飴釉徳利)と定められていました。
しかし江戸時代後期(19世紀初頭)になり、瀬戸で始まった磁器生産の技術が多治見にも伝わってきたのです。この時代、磁器製品はそれまで生産していた陶器より商品価値が高かったため、多治見の窯業各地に磁器製造の技術があっという間に広がったのは想像に難くありません。その中でも滝呂は磁器生産への移行が早かったようです。その上、滝呂は他に比べても技術力が高かったようで、窯跡から発掘された磁器製品からもその質の良さが見て取れます。
この時代に滝呂の神明神社には磁器の狛犬が奉納されており、滝呂の陶工たちが自分たちの技術力を誇りに思っていたことが感じられます。
しかし江戸時代後期(19世紀初頭)になり、瀬戸で始まった磁器生産の技術が多治見にも伝わってきたのです。この時代、磁器製品はそれまで生産していた陶器より商品価値が高かったため、多治見の窯業各地に磁器製造の技術があっという間に広がったのは想像に難くありません。その中でも滝呂は磁器生産への移行が早かったようです。その上、滝呂は他に比べても技術力が高かったようで、窯跡から発掘された磁器製品からもその質の良さが見て取れます。
この時代に滝呂の神明神社には磁器の狛犬が奉納されており、滝呂の陶工たちが自分たちの技術力を誇りに思っていたことが感じられます。
明治時代に入っても「親荷物」的な取り決めが続いていたようで、窯跡の発掘遺物から小皿が多く出ており、組合の専制権によって限定して小皿を生産していたと思われます。
このように順調に窯業地として成長していた滝呂地域ですが、明治30年代(1900年辺り)に国内向けの販売が不況になったことをきっかけに、輸出向けの洋食器生産へと転換をはかるのです。
そして洋食器の白磁を焼くのに適した石炭窯を多治見でもいち早く導入し、新しい時代の波に乗っていきました。
この輸出向けの洋食器生産は昭和30~40年代には最盛期を迎え、貨物列車でこの小さな町の駅から名古屋の貿易商まで大量に出荷されていたそうです。
このように順調に窯業地として成長していた滝呂地域ですが、明治30年代(1900年辺り)に国内向けの販売が不況になったことをきっかけに、輸出向けの洋食器生産へと転換をはかるのです。
そして洋食器の白磁を焼くのに適した石炭窯を多治見でもいち早く導入し、新しい時代の波に乗っていきました。
この輸出向けの洋食器生産は昭和30~40年代には最盛期を迎え、貨物列車でこの小さな町の駅から名古屋の貿易商まで大量に出荷されていたそうです。
滝呂の町を歩いてみると、丘に沿って町が伸びていて、確かにこの地形は窯業が盛んになるわけだと納得させられます。
近代の石炭窯以降は斜面が必要ではありませんでしたが、この丘沿いに煙突がにょきにょきとそびえたって、滝呂の町のシンボルとなっていました。
現在は煙突も老朽化などでなくなりましたが、今でも先人の技術は受け継がれ洋食器の町として続いています。
近代の石炭窯以降は斜面が必要ではありませんでしたが、この丘沿いに煙突がにょきにょきとそびえたって、滝呂の町のシンボルとなっていました。
現在は煙突も老朽化などでなくなりましたが、今でも先人の技術は受け継がれ洋食器の町として続いています。
そしてこのサイトの記事でも取り上げた長期作陶滞在施設Ho-Caもこの町にあります。
またその他に近々新しい作陶滞在施設ができる予定となっています。
タイルの町 笠原
笠原町はかつて「笠原茶碗の町」として知られていましたが、今日ではモザイクタイルミュージアムがランドマークとなっているように、タイルの町として知られています。
笠原でも滝呂と同じく「親荷物」制度によって飯茶碗の生産が指定されていました。そのため明治時代までは茶碗を主に生産し、茶碗の町と呼ばれる程、窯業地として成長していきました。
しかしながらここ笠原にも国内の販売競争の激化、不況、災害、時代の変化などで新しい道を追求していかざるを得ない状況が訪れます。
大正から昭和に時代が移り変わるころ、日本では関東大震災に見舞われ、建築も変革期を迎えていました。建物はより頑丈なコンクリート建築が多くなり、その装飾や衛生的理由のためタイルが様々な場所に使われるようになりました。日本でもその少し前から国内のタイル生産が少しずつ始まりだしていました。
多治見では大正3年(1914年)にタイルの生産が始まっています。驚くことにこの時はタイルという呼称はなく、「敷瓦」「壁瓦」「化粧煉瓦」「貼付煉瓦」などと呼ばれていたそうです。
そんな中、笠原に生まれた山内逸三は、京都で陶磁と釉薬を学び、帰郷してタイル工場を設立します。当初、大型の建築用装飾タイルを中心に製造を始めました。しかし成形に時間もかかり、焼成中に割れてしまったりするので、もっと小さくシンプルなタイルができないかと数々の試行錯誤を経て1935年施釉磁器モザイクタイルの開発に成功。このモザイクタイルは表面積が50㎠以下の小型タイルで、均一なロットでの生産ができるため量産向きでした。このタイルは生産方法に革命を起こし、町中にタイル工場が次々と出来、戦後のタイル生産の中心地となったのです。
笠原で生産されたモザイクタイルは鉄道に乗せられてどんどん出荷され、1970年(昭和45年)の貨物輸送の最盛期に月間12,000トン、全国シェアの約8割を占め、名古屋港における主要な輸出品の一つとなっていました。
現在モザイクタイルは町のアイデンティティとして町のあちこちで目にすることができます。中心にはモザイクタイルミュージアム、町の至る所にある数々のゴミステーションはモザイクタイルアートで飾られています。また、ミュージアム近くの和菓子店「陶勝軒」ではモザイクタイルをイメージしたお菓子がありますよ。
(ゴミステーションのモザイクタイルアートについての記事はこちらから)
町歩きのヒント
- 陶彩の径 旧本多治見駅跡 https://maps.app.goo.gl/9LjHDNDkRS5khNhM9
- 滝呂神明神社 https://maps.app.goo.gl/DpBHVR8wT4pymQn86
- 滝呂区民会館 https://maps.app.goo.gl/PBMnaLX2uatxEU5T6
- 滝呂中央公園 https://maps.app.goo.gl/D5QMQpa9VkySd7oC6
- 滞在型作陶施設 HO-CA https://maps.app.goo.gl/h5rGUkDeNn6WpAL99
- 半蔵窯 https://maps.app.goo.gl/54WTac2NfdMhq18v6
- 多治見市モザイクタイルミュージアム https://maps.app.goo.gl/hXmKHsDqoeGAvEeZ8
- 笠原神明宮 https://maps.app.goo.gl/QTagVKwJHNMJYNsf8
- 陶勝軒 https://maps.app.goo.gl/7q53ziWLiDaFdFFL9