安藤日出武
美濃焼の巨匠
多治見市市之倉町は昔から陶器愛好家たちにはよく知られた小さな集落です。ここにはたくさんの窯があり、有名な窯も、あまり知られていない窯もありますが、陶器に興味があるなら訪れるべき町です。中心部には市之倉さかづき美術館があり、人間国宝の陶芸家が手掛けた作品を目にすることもできます。またこの町には特に黄瀬戸の巨匠として知られた安藤日出武氏の工房があります。私たちは清々しい初夏のある日、彼に会いに行きました。名声を手に入れているにもかかわらず、彼は気取ったところを感じさせませんでした。80歳になっているというのに彼の顔は今でも輝き、フレンドリーで暖かい笑顔を絶やしません。そしてこの辺りの方言である東濃弁の中でも特に強い訛りで話す方でした。そのためたまに分からないところもありましたが、それは彼のチャームポイントの一つであり、彼の個性をより豊かに表現している部分でもありました。その話し方は魅力的で暖かいこの土地柄をも表し、彼の個性から切り離すことはできないだろうと感じました。
「焼き物づくりは本当に難しい。私はもう60年もやってますが、まだ納得いくものはできていません。20歳の頃から始めて、今80歳になりますけどね。」と言いました。この話は今回のインタビューの大きなテーマとなりました。美濃焼を極めるのは雲を掴むようなことですが、それでも彼は諦めず追い求め、そこに終わりはありません。焼き物作りは人間の力ではコントロール不能な部分があり、面白い部分でもあるのでしょう。
「私の父はこの辺りにたくさんいるごく一般的な窯焼(焼き物を仕事にする人)でした。私も最初は白い小皿なんかを作っていたんですよ。そういったものを二束三文のような値段で売っていました。でも一生こんなものを作っていていいのだろうか?何か違うことをしなければいけないんじゃないか?と強く思うようになりました。と言っても次に何をすればいいか思いあぐねている時、近くの瀬戸に住んでいる有名な陶芸家の加藤唐九郎さんと運よく出会う機会がありました。そして彼にこんなことを言われました。『そんな大量生産の焼き物作りに時間を費やしている場合じゃない。君は美濃に住んでいるのだから、志野や織部のような、この地に古くから伝わっている焼き物を極めるべきだ。』これが美濃焼に深く入り込むきっかけとなったのです。」
「私の父はこの辺りにたくさんいるごく一般的な窯焼(焼き物を仕事にする人)でした。私も最初は白い小皿なんかを作っていたんですよ。そういったものを二束三文のような値段で売っていました。でも一生こんなものを作っていていいのだろうか?何か違うことをしなければいけないんじゃないか?と強く思うようになりました。と言っても次に何をすればいいか思いあぐねている時、近くの瀬戸に住んでいる有名な陶芸家の加藤唐九郎さんと運よく出会う機会がありました。そして彼にこんなことを言われました。『そんな大量生産の焼き物作りに時間を費やしている場合じゃない。君は美濃に住んでいるのだから、志野や織部のような、この地に古くから伝わっている焼き物を極めるべきだ。』これが美濃焼に深く入り込むきっかけとなったのです。」
インタビューでの安藤日出武氏 2019年6月
新しい道に踏み出すのことには躊躇しなかったのですか?陶芸家として名前を上げ、それで食べていける人はほとんどいないのでは?
「全く躊躇しませんでした!もちろん陶芸家の先生たちはその知識や技術を丁寧に教えるなんてことはありません。出来るようになるまで自分で一から始めるしかありませんでした。先生方の考えではなんの手がかりもない中で、もがいて生み出すものだという気持ちがあったのでしょう。真似することは泥棒と同じでいいものは出来ません。その上、みなさん自分の技術の鍛錬や、研究でとても忙しかったのですからね!最初の1年は何度も何度も失敗して、失敗から学び、そしてまた失敗の繰り返しで過ぎていきました。」
「全く躊躇しませんでした!もちろん陶芸家の先生たちはその知識や技術を丁寧に教えるなんてことはありません。出来るようになるまで自分で一から始めるしかありませんでした。先生方の考えではなんの手がかりもない中で、もがいて生み出すものだという気持ちがあったのでしょう。真似することは泥棒と同じでいいものは出来ません。その上、みなさん自分の技術の鍛錬や、研究でとても忙しかったのですからね!最初の1年は何度も何度も失敗して、失敗から学び、そしてまた失敗の繰り返しで過ぎていきました。」
しかしこのような状態で生計はたてられたのでしょうか?
「そりゃあ本当に大変でしたよ。稼ぐために何か売れるものも作らなくてはいけませんが、いつもそういったものには満足していませんでした。これが自分の人生をかけて成し遂げるものか?と自問自答していました。そして、自分自身の作品を作り始めるべきだと決めたのです。
私は昔の志野や他の美濃焼を作る土を探すため、山のなかを歩いて回りました。本来の美濃焼はどこかで買えるような土では作れません。ついに可児市の久々利辺りの山の中でちょうどいい土を見つけたのです。そこは昔から焼き物を作っていた地域で、歴史的に美濃焼の最高の時代だった桃山時代まで遡れる場所です。」
「そりゃあ本当に大変でしたよ。稼ぐために何か売れるものも作らなくてはいけませんが、いつもそういったものには満足していませんでした。これが自分の人生をかけて成し遂げるものか?と自問自答していました。そして、自分自身の作品を作り始めるべきだと決めたのです。
私は昔の志野や他の美濃焼を作る土を探すため、山のなかを歩いて回りました。本来の美濃焼はどこかで買えるような土では作れません。ついに可児市の久々利辺りの山の中でちょうどいい土を見つけたのです。そこは昔から焼き物を作っていた地域で、歴史的に美濃焼の最高の時代だった桃山時代まで遡れる場所です。」
あなたは黄瀬戸の作品でも有名ですよね?
「そうです。でも黄瀬戸という名前は間違っているんですよ。黄瀬戸はその昔瀬戸ではなく、ここ美濃の地の土で作られていた焼き物です。」
あなたは誰も教えてくれないので、一から始めなければとおっしゃいました。全くアドバイスがない中で、窯を作らなくてはいけなかったということについて教えてください。
「本当に何も知らないところからの出発でした!私は最初一般的なガス窯を使い、売るために商品を作っていました。しかし、しばらくして私は商品を作るだけでは満足できなくなってきたのです。桃山時代の偉大な陶芸家たちの当時のやり方を試してみたいと思いました。そのためには桃山陶を作り出した穴窯が必要でした。私の姉が可児市の久々利に住んでいて、その辺りに窯を建てることができる土地があるかどうか探してくれました。幸いなことに、私が探していたとおりの土地を持っている人がいて、こう言ったのです。「あなたが使えそうな土地には丘もありますよ。」それこそ私が探している土地でした。そこで私は当時で6000円の借金をして、そこを買ったのです。」
「そうです。でも黄瀬戸という名前は間違っているんですよ。黄瀬戸はその昔瀬戸ではなく、ここ美濃の地の土で作られていた焼き物です。」
あなたは誰も教えてくれないので、一から始めなければとおっしゃいました。全くアドバイスがない中で、窯を作らなくてはいけなかったということについて教えてください。
「本当に何も知らないところからの出発でした!私は最初一般的なガス窯を使い、売るために商品を作っていました。しかし、しばらくして私は商品を作るだけでは満足できなくなってきたのです。桃山時代の偉大な陶芸家たちの当時のやり方を試してみたいと思いました。そのためには桃山陶を作り出した穴窯が必要でした。私の姉が可児市の久々利に住んでいて、その辺りに窯を建てることができる土地があるかどうか探してくれました。幸いなことに、私が探していたとおりの土地を持っている人がいて、こう言ったのです。「あなたが使えそうな土地には丘もありますよ。」それこそ私が探している土地でした。そこで私は当時で6000円の借金をして、そこを買ったのです。」
「さらに幸運なことに窯を作るアドバイスをくれる人も出てきました。そして私はその窯に仙太郎窯と名付けました。窯を作るのは簡単なことな全くありませんでしたが、好きだから出来たのです!それから桃山時代の職人たちを思うと、その仕事は全く素晴らしいとしか言いようがありません。その時代には電気もなく、全てが現在に比べて素朴なものでした。それにも関わらず、彼らはものすごく洗練されたものを作っていたのです!私は現在でもこのレベルの作品を生み出すには、山を歩いてその時代にあったような土を見つける必要があると思っています。そして昔のやり方で自分だけの釉薬を作らなければいけません。簡単に買えるものでそのような材料の代わりになるものはありません。一度そういった材料と窯を手に入れたら、一生懸命作って試し、また失敗して作って試す繰り返しです。そこに終わりはありません。」
完全に満足する作品が出来たことはありますか?
「それはまだないですね。完璧に成功したと感じたことはないのです。まあまあよくできたと思える作品はごく僅かです。大体焼き上がったものの1割くらいが作品としていい出来かなというくらいです。窯で火を焚いて1500度にもなるところで6日間かかるので、窯焚きにはかなりお金がかかります。そしてちゃんと出来た数少ない作品でそれを賄わなくてはいけません。窯焚きの最終段階では福島の上質な松を使います。窯焚きは最初の3日間で窯の中ををまんべんなく温めます。それから30分か40分ごとに薪をくべて950度で3日間保ちます。その後の最終段階では950度から1250度に上げていくため5分おきに薪を入れていきます。この段階は焼き上げる上で重要な時間なので、この時は上質で高価な薪を使います。」
「それはまだないですね。完璧に成功したと感じたことはないのです。まあまあよくできたと思える作品はごく僅かです。大体焼き上がったものの1割くらいが作品としていい出来かなというくらいです。窯で火を焚いて1500度にもなるところで6日間かかるので、窯焚きにはかなりお金がかかります。そしてちゃんと出来た数少ない作品でそれを賄わなくてはいけません。窯焚きの最終段階では福島の上質な松を使います。窯焚きは最初の3日間で窯の中ををまんべんなく温めます。それから30分か40分ごとに薪をくべて950度で3日間保ちます。その後の最終段階では950度から1250度に上げていくため5分おきに薪を入れていきます。この段階は焼き上げる上で重要な時間なので、この時は上質で高価な薪を使います。」
窯のなかはどんな様子ですか?
「中での火や灰の動きがどうなるかは全くわかりません。全ては自然の力によるものです。志野を焼く時は、えんごろなど火が作品に直接あたらないようにする道具は使いません。ただ窯に入れてうまく焼けるよう願うだけです。さらに窯は丘の斜面にあります。窯焚きは天候に大きく作用されますが、天気もどうなるか全くわかりません。それでも窯に火を入れると決めたら、晴れだろうが雨だろうがそんなことは問題じゃないのです。私は自然のなすがままを受け入れるだけなのです。私は春と秋の年2回窯に火を入れますが、その季節ごとで条件も違います。このように窯で出来上るものは自然の力によるものだとお分かりになったでしょう。だからこの仕事に全く飽きることがないのです。」
「美濃焼のどこが素晴らしいかといえば、それは自然と共にあるからです。その時その時の火でしか出来ないということ、そしてもちろんですが昔の職人たちの仕事から学ぶべきことがたくさんあります。しかし彼らのやっていたことを真似しようとしてもできるものじゃありません。取り巻く状況が全然違うからです。例えば、現在の私たちはたくさんある情報を手に入れることが出来ますが、昔の時代は違いました。私たちがしなければならないことは、私たち自身の方法で焼き物をさらに発展させ、自分自身を表現する方法を見つけることです。これは今まで私がやってきたことであり、美濃焼を作りたいという陶芸家たちへのアドバイスでもあります。美濃焼は、日本の焼き物において重要な歴史を歩んできました。その技術を鍛錬してよく学んで、そして自分自身の道を探してください。私はこの人生を讃えられることに興味はありません。自分自身の方法で何世紀も残るような価値のある作品を作ることに没頭したいだけです。」
「一番大事なことは楽しんでやることです。私は作る過程で一番気持ちが盛り上がるのは窯焚きのところなんですよ。たとえいい土が手に入って、これは!と思うような形が出来ても、最終的な出来は火が決めることです。35年前、穴窯を作り始めた時のことですが、丘を登り、何もないところからスタートしました。そこに電線を引っ張り、電気を使えるようにし、住居と工房を建て、井戸を掘り、もちろん窯も建てなければいけなかったので、その間、浮浪者のようにそこに住みこんで作ったんですよ。」と笑いながら言い、「そして必要な土を探して何日か山の中を歩き回りました。その結果、いい土が採れる場所を3箇所見つけました。大変なことでしたが、しなくてはいけないことだったのです。」
「美濃焼の道に進もうとしている皆さんへのもう一つのアドバイスとしては、茶道を勉強することです。これは美濃焼に深く関係しています。美濃焼の抹茶碗は日本の歴史の中でも茶道を好んだ偉大な武将たちに使われてきました。武将でもあり茶道にも精通していた古田織部や、その茶道の師匠である千利休のような人たちはそのお手本となります。彼らは侘び寂びの精神やその美学を体現していました。その素朴で自然が作り出す美しさは何十年、あるいは何世紀も使って輝きだすものです。こういった抹茶碗は永い間使うことでその美しさに磨きがかかってきます。」
おそらく、これは安藤氏が語った、人生を称賛されることには興味がないと言った真意でしょう。彼の作った抹茶碗を何世紀も使うことで、風格と作品の個性が融合し、彼が目指している最終的な形に到達するのだと思います。将来は昔の巨匠たちの作品を超えて、彼の目指している作品が完成するかもしれませんね。
安藤日出武氏について
岐阜県重要無形文化財所有者および多治見市無形文化財所有者。彼はまた、他の多数の文化賞も受賞しており、日本の公共放送局であるNHKが放送するテレビ番組など、メディアにも積極的に出演しています。