ここ多治見でうなぎが地元名物となった理由の一つには、この地域の窯焼きと呼ばれる窯専門の職人たちが長時間働くのに高カロリーの食べものを必要としたからだ、と言われています。窯焼きたちは、窯の中で激しく燃えさかる炎からの猛烈な熱に耐えなければいけませんでした。また、火の具合によって陶器の出来上がりに影響するので、長時間火の面倒をみる必要があり、こうした長時間の作業にも対応しなければなりませんでした。
この壁画には、16世紀から17世紀の変わり目にこの地域で陶器産業が盛んになり始めた頃の、当時の職場の様子が描かれています。この中に見られる人の様子は生き生きとして、当時の窯焼のエピソードがありありと想像できます。いわゆる登り窯と呼ばれる窯のデザインを見てみると、数部屋が連なっており、すべての部屋が炊き上がるまで何日もかかるので、何人かの窯焼職人を必要としました。窯は昼夜続けて焚き続けなければいけないので交代で行い、上手く焼きあがると、宴会をしてお祝いすることもありました。宴会で飲みすぎ、寝過ごして仕事に遅れ、怒られた陶工もいたそうです。
日本文化の他の多くのものと同様に、窯の建造に必要なノウハウは中国から朝鮮半島を経て入ってきました。窯は何千年もの年月をかけて発展してきましたが、日本で特に有名なのは登り窯(上へと登る釜)、そしてその前身である穴窯と大窯です。窯技術発展の各段階で、新しい生産方法、効率性の改善、高品質の製品の製作が可能になったのです。
織部焼を完成させた窯
穴窯は5世紀前半に朝鮮半島から日本に紹介され、これによって日本の地形をうまく利用して一度により多くの陶器を焼くことができるようになりました。窯を斜面に建造し、焚口を一番下に置くことによって、炎と高温ガスは、上方に登る長部屋に詰められた陶器を通過し、ダンパーを介して排気口から外に排出されます。
大窯の登場により、窯を地上に造ることができるようになったため、効率性がさらに向上しました。焼成室をより広くすることもでき、横からの陶器の出し入れも可能になるなど、様々な点が改善されました。
こうした初期の技術革新の後、日本および美濃地域における陶器産業の急速な発展と密接に結び付いたのは、登り窯(上へ登っていく窯)だったのです。歴史的文献によると、加藤四郎右衛門景延という名の陶工が、1605年に日本南部の九州から土岐にこの技術を持ち込んだとされています。こうして多治見の隣にある土岐市は美濃地域における織部焼の大規模生産の足がかりとなりました。そしてこれが1620年代の半ば頃まで続いたのです。この事業を可能にしたのが、登り窯の効率性でした。窯をいくつもの小さな焼成室に仕切りそれを長く連鎖させたことにより、エネルギー効率が大幅に改善され、大量生産が可能になり、織部焼に対する市場需要の増加を満たすことができるようになったのです。織部焼はそれまでに見られた焼き物とはまったく違う斬新なスタイルで、美的センスにあふれた茶道具としても人気を博し、当時はとてもおしゃれとされていました。
登り窯は、その前身である穴窯と大窯と同じように、倒炎式の窯でした。炎は正面の焚口から始まり、最初の焼成室に移動し、棚に何百と置かれた陶器の上を通過し、その後再び陶器を通って下に戻ります。次の焼成室はいわば丘の上の一段高いところにあるので、熱は壁の狭間を通り、次の部屋でこの工程を繰り返します。しかし、この廃熱はこういった工程を完了するには十分ではないので、陶工が部屋の側面にある出し入れ口を通してさらに多くの薪を追加します。
そこで焼き終わると、前の室を焚いた際に次の窯が予熱され、この工程を繰り返すことができます。こうして次々に工程を繰り返しながら、炎は登り窯の最上部で床下式の間に排出され、煙が煙突から出て行きます。
この仕組みにより、時間や薪を節約することができます。これは大切なことです。全工程が2週間、時には1ヶ月以上かかることもあるからです。大型の登り窯であれば、何百何千という陶器を焼くことができます。つまり全て焚くのに大量の薪の投入と何度もの陶器の出し入れが必要となります。これらを高温の炎が焚き続けられる中で行います。陶工が作業を続けるのに精のつく鰻や酒を必要としたのも納得がいきます。
薪を使う窯はその後ほとんどが石炭を使う窯、そして後にガスや電気を使う窯に取って代わられるようになりましたが、登り窯は今でも日本や海外の陶芸家や陶工に愛され使われています。リチャード・ザキン氏はその記事 “Klins and Klin Designs(窯と窯のデザイン)”の中で、こう書いています。
薪を使って高温で焼くやり方は、その木灰の豊かさ、高熱での焼成、および還元効果に価値を見出す陶芸家たちによって今日でも使用されている。焚いている最中、薪から出る灰は自然に陶器にふりかかる。焼成温度の高さが十分にあれば、それらの灰は揮発して、釉薬となる。
これらの釉薬には優しいまだらのイメージがあり、作品の表面を覆い、その足元に向かってゆっくりと流れ落ちる。こうして生まれた表面の豊かさこそが薪を高燃焼の燃料として使用する理由なのだ、と薪好きの陶芸家たちは主張する。
織部焼はまだ始まったばかり
登り窯は1900年代に至るまで、日本の陶業の発展に大きな役割を果たし続けました。ですが美濃焼の物語はまだ終わったわけではありませんよ。この部分については近いうちに詳しく書くことにしましょう。外国の方々が登り窯の世界を通して陶器の楽しさをたくさん発見していただければ、と願ってます。
現在多治見市観光協会英語版サイトでは美濃焼のストーリーをVR(仮想現実)でお届けする画像プロジェクトに取り組んでおり、完成したらインターネットが使える方なら誰でもその体験にアクセスできるように準備しています。その動画にも登り窯が登場します。さらに外国からのお客様には、多治見市にあるヴォイス工房の大型登り窯で行われる窯焼体験にご参加いただければと願っております。
窯焼をするには通常大量の陶器を焼かなくてはならないので、この大きな窯はそう頻繁には使用されません。時折イベントなどで窯焼が行われますので、たくさんのお客様に参加いただければ嬉しく思います。
現在多治見市観光協会英語版サイトでは美濃焼のストーリーをVR(仮想現実)でお届けする画像プロジェクトに取り組んでおり、完成したらインターネットが使える方なら誰でもその体験にアクセスできるように準備しています。その動画にも登り窯が登場します。さらに外国からのお客様には、多治見市にあるヴォイス工房の大型登り窯で行われる窯焼体験にご参加いただければと願っております。
窯焼をするには通常大量の陶器を焼かなくてはならないので、この大きな窯はそう頻繁には使用されません。時折イベントなどで窯焼が行われますので、たくさんのお客様に参加いただければ嬉しく思います。
Sources
Books
Various material from the Tajimi City Library, further details will be provided shortly.
Articles
Richard Zakin, "Kilns and Kiln Designs, in the booklet "A Guide to Ceramic Kilns", published by ceramicartsdaily.org
Exhibitions
Text material from the permanent exhibition at the Minoyaki Museum, Tajimi.
Images
Illustrations of the anagama kiln, ogama kiln, and noborigama kiln kindly provided by Minoyaki Museum, Tajimi.
The photographs of the Shino ware bowl and the Oribe tea bowl were also made possibly by the co-operation of the Minoyaki Museum, Tajimi.