織部 - 美的センスの革命
NHKで13回シリーズとして放送されたアニメ番組「へうげもの」の主人公は主君への忠誠心と「数寄」への忠誠心との間で葛藤する茶道具を愛する織田信長の家臣でした。漫画家の山田芳裕氏は第一巻の表紙でこのストーリーをこんな風に紹介しました。
「群雄割拠、下剋上の戦国時代。立身出世を目指しながら、茶の湯と物欲に魂を奪われた男がいた。織田信長(おだのぶなが)の家臣・古田左介(ふるたさすけ)。天才・信長からは壮大な世界性を、茶聖・千宗易(せんのそうえき=利休)からは深遠な精神性を学び、「へうげもの」への道をひた走る。生か死か。武か数奇か。それが問題だ!!」
このコミックの第一巻では、信長に敗北するも、自身が愛する非常に価値のある茶碗を差し出せば命は助けるという交渉を持ち掛けられた武将が、なんとその茶碗との爆死を選択するという、かなり奇想天外なストーリーが展開しました。この物語自体はあくまでフィクションですが、この当時における人々の茶器への執着心がありありと描かれています。そしてこの茶器への執着心こそ、この漫画の主人公、古田佐助のモデルとなった古田織部の特質そのものでした。私たちは彼の燃え上がるような茶器への熱意を数世紀を経たこの時代においても感じ取ることができます。私が美濃焼園の渡辺さんに彼のお店で初めて出会った時もやはり茶器への燃え上がる情熱を彼から感じ取りました。(ちなみに、この方はエッセイのパート1に出てきました。お読みになった方は覚えていらっしゃると思いますが・・・)彼のお店では桃山陶を専門としています。渡辺さんによると、桃山時代は正に日本における陶器の黄金時代だったそうです。ロバート・イェーリン氏のジャパンタイムスでの記事「美濃桃山の魔法は時を超えていまだに輝き続ける」という記事を読んで桃山時代にタイムスリップしてみましょう。
「時をさかのぼって、1570年代にタイムスリップしてみましょう。といっても、当時の森の中をハイキングするというわけではありません。目的は、日本において最高の陶器発祥の地の一つを巡礼することなのです。」
「私たちはかつては美濃国と呼ばれ、現在では岐阜県南部の土岐市と多治見市に囲まれた丘にたどり着きました。ここで、尾張国から度重なる戦火を逃れてたどり着いた瀬戸焼の優れた陶工たちが多くの新しい窯を立ち上げました。特に有名なのは加藤景光(1513-1585)であり、彼らはこの地に1574年にやって来て、大萱、大平、久尻に窯を開き、桃山時代(1573-1615)にいくつかの志野焼の傑作を作り出しました。」
別の回に詳しく書く予定ですが、志野焼は可児と多治見との境目辺りで生まれたと言われています。美濃焼を代表する4種類の焼物は志野、織部、瀬戸黒、黄瀬戸ですが、これらは茶道に深く関係しており、その為美濃焼は、今私たちが知っている日本という国の形成に、歴史的にも政治的にもつながりがあるのです。最高の陶工であった加藤景光はこの地で重要な役割を果たしました。イェーリン氏は陶工・加藤景光について記事を書いた際に伝統的な陶器として、瀬戸黒、黄瀬戸、織部を紹介しました。今回、私は織部焼にスポットを当てたいと思います。織部焼は型破りで、多くの陶器愛好家たちにとって特別な存在です。そして、物語は茶聖と称される千利休とともに始まります。
美の革命の始まり
17世紀に入ると我々の主役である古田織部が茶道の巨匠である千利休のもと、新たな役目を担うことになります。千利休は中国から伝わってきた茶道に重要な変化をもたらしました。彼は究極のシンプルさとミニマリズムを愛し、中国から伝わってきた茶器ではなく日本で作られた茶器を好みました。このスタイルは現代では裏千家として知られています。裏千家淡交会のウェブサイトでは千利休を以下のように紹介しています。
16世紀に茶道を完成させた茶聖である千利休は、茶道の重要な点について、尋ねられ際に7つのルールについてこう答えました。一つ目は、満足のいくお茶をたてること。二つ目は、お湯を効率よく沸かせるように炭を置くこと。三つ目は、夏には涼しさを、冬には温かさを演出すること。四つ目はまるで野山にいるかのように花を飾ること。五つ目はあらかじめ準備しておくこと、六つ目は雨が降ってきたときのために事前に準備すること、そして七つ目は客人に最大限の配慮を払うこと。
この利休との会話のなかで、質問者は利休の答えに苛立ち、「そんなことなど誰にでもできる単純なことだ!」と反論しました。すると利休はこれに対し、「もし、あなたがこのルールを完全に実行することができるのなら、私があなたの弟子になりますよ。」と答えたのです。
このストーリーからわかることは、これらの七つのルールをマスターするには大変な修行が必要ではありますが、基本的に茶道は日常の生活のなかの活動に深くかかわっているということです。この意味において、茶道はよく「日常生活の芸術」と表現されます。
前回でも触れたように信長の死後、利休の新たな主君となった豊臣秀吉は農民の生まれでしたが、信長のように茶道の政治的な重要性を深く理解していました。茶聖である利休はどうやら茶道における政治的な駆け引きを好んだようです。そして、結果的に理由がなんであれ、秀吉は利休に切腹を命じたのです。
戦国武将であり利休の弟子でもあった古田織部(1544 – 1615)は利休の死後、主要な茶人となりました。彼はユニークな点がたくさんあり、その名前は日本における伝統的な陶器のなかでも最も人気のある織部焼の名前の由来にもなっています。織部焼は彼が茶会で好んだ茶器の様式でつくられておりその特徴は、歪んだ形で厚く釉薬を塗った、淡い単色の色彩のシンプルで土臭い茶器といったところです。古田織部の燃え上がるような陶器への情熱は今日の現代人をも魅了しています。漫画「へうげもの」の主人公として描かれた古田織部は、武人としての責務と美しい陶器に対する執着心との間で葛藤する男でした。
古田織部は1544年に美濃に生まれ、織田信長の家来でもありました。1580年から1620年にかけてが美濃焼の黄金時代とみなされていますが、古田織部はまさにその中心人物でした。彼は、風変わりで突き抜けた美的センスの持ち主であり、イレギュラーに曲がった形状の日本の陶器の誕生にもかかわっています。旧美濃地方の中心に位置する多治見にオリベストリートという通りの名前がありますが、古田織部の名に由来していることは偶然ではありません。
織部は大名、もしくは武将として人生を過ごしました。彼と織部焼の誕生との関係は不明瞭です。おそらく、彼はあまりに忙しかったためクリエイティブな部分にそこまで多くの時間を割くことはできなかったのではないかと思われます。彼の美的な興味は幅広く、茶室や庭園のデザインに対しても新たな考え方を導入していきました。
しかしながら、おそらくは織部が織部焼の発明に直接かかわらなかったとしても、茶道の師である千利休(1522 – 1591)との出会いが、日本の茶道とそこで使われる茶道具の美的センスに非常に重要な影響をもたらしたことは確かです。そして、美濃焼の中でも織部焼は光り輝いています。
織部と利休は彼らの主である織田信長が世を去った1582年ごろに出会いました。そして1590年までに織部は利休の主要な7人の弟子のうちの1人となりました。信長の死後、彼らは共に当時天下を掌握していた武将、豊臣秀吉のもとに仕えました。
突き抜けた美的センス
スライドショーの画像詳細はこの記事の下部分をご覧ください。
師である利休の切腹による死後、織部は武将たちによる茶会の決め事において代表的な役割を担うようになりました。メトロポリタンミュージアムで2003年に開かれた「転換期としての16世紀の織部焼とアート展」で織部焼の展示に関わった村瀬 實惠子氏は「織部は利休が生み出した厳格なスタイルから離れ、当時の最新の茶器などもかなり積極的に取り入れて、より日本的な要素を強く強調していくようになっていきました。」と言っています。
織部は不完全さを特に好んだというわけではないようです。しかし必要とあれば歪んだ形を作ることで、焼物に対する美意識を改革する先駆者となりました。メトロポリタンミュージアムのアート展のコメンテーターだったソーレン・メリキアン氏はヘラルド・トリビューン紙に「不完全の美学」という記事を寄稿し、以下のように述べています。
ある一人の著者が、朝鮮から取り寄せた茶碗が茶道で使うにはあまりに大きすぎるので、織部がそのようにその器を壊したかを1727年に書いています。彼は茶碗を二つに割り、その破片を赤い漆で接着して新たな抹茶茶碗を作ったのです。また、織部はある掛け軸が茶室に掛けるには大きすぎると言って二つに切ってしまったこともあります。このエピソードは一気に広がりました。
[...]織部は西洋社会で300年以上経って受け入れられた美意識をすでに先取りしていたのです。彼は均整の取れた美しさという概念に挑み、いち早く知的創造を行っていったのです。
織部の陶器への執着と異常性は彼の人生に大きな負担となったのかもしれません。さらに、織部はクリスチャンとの間に強いコネクションがあり、それは当時では危険なことでした。
当時ポルトガルからきたイエズス会宣教師たちは日本により強い影響力を与え始めていました。彼らは秀吉にとって脅威になりうる武将たちと同盟を結んでいたため、織部にとって危険なことでした。この宣教師たちはずる賢く、茶会の政治的重要性を見抜き、武将たちに接触し、布教手段として茶会を利用しようとしました。最終的にはクリスチャンを危険視した秀吉が26名の宣教師を処刑しました。この出来事が日本におけるクリスチャンの影響力の終焉の始まりでした。
秀吉は暴力的でしたが、織部は日本の3大勢力の中の3番目の存在である徳川家康の下につくことでどうにかやり過ごしました。この徳川家康は1615年に大阪城で秀吉とその軍勢を打ち倒し、徳川政権によって新たに江戸時代を打ち立てた人物です。織部も当初は徳川側から好待遇を受け、茶道を将軍・徳川秀忠に教えていましたが、京都での徳川家と天皇に対する謀反の嫌疑をかけられ、徳川家によって息子ともども切腹を命ぜられました。
織部の死後も彼の影響力は強くなっていきました。陶器の世界で不完全の美学が勝利したのです。あなたも多治見の渡辺さんのお店に行って、それを感じてみてはいかがでしょう!
織部焼と美濃焼に関する補足
数世紀をかけて、外見にそれぞれ違いを持つ4つの美濃焼のスタイルが発達しました。これらは茶道と強いつながりがあります。
黄瀬戸:全体的に黄色の焼物
瀬戸黒:全体的に黒い焼物
志野焼:灰色がかって、主要なテーマとして秋のすすきが描かれている。これは、鉄酸化物と長石薬による効果である。不均等に釉薬を塗ることで窯のなかで焼く際に色彩に特徴が生まれる。他にも、無地志野、絵志野、紅志野、赤志野、鼠志野などがある。
織部焼:緑と黒が特徴。他に、青織部、草織部、赤織部、鳴海織部、志野織部、黒織部がある。
黄瀬戸:全体的に黄色の焼物
瀬戸黒:全体的に黒い焼物
志野焼:灰色がかって、主要なテーマとして秋のすすきが描かれている。これは、鉄酸化物と長石薬による効果である。不均等に釉薬を塗ることで窯のなかで焼く際に色彩に特徴が生まれる。他にも、無地志野、絵志野、紅志野、赤志野、鼠志野などがある。
織部焼:緑と黒が特徴。他に、青織部、草織部、赤織部、鳴海織部、志野織部、黒織部がある。
織部焼は伝統的なスタイルにくらべ、現在は鮮やかな色彩とパターンがある。
陶器における新しい技術を取り入れていくことで織部焼の素晴らしい外観を作り出すことが可能になった。
織部焼のスタイルは茶碗の域を超えている。不規則な形状は食事用の更にも取り入れられている。
緑釉と大胆なデザインが織部焼の典型である。
陶器における新しい技術を取り入れていくことで織部焼の素晴らしい外観を作り出すことが可能になった。
織部焼のスタイルは茶碗の域を超えている。不規則な形状は食事用の更にも取り入れられている。
緑釉と大胆なデザインが織部焼の典型である。
文中の画像について
左の画像から順に:
織部獅子鈕香炉 慶長17年(1612年)
東京国立博物館蔵
織部獅子鈕香炉 慶長17年(1612年)
東京国立博物館蔵
By Puchku (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
青織部鳥文角鉢 桃山時代 1573–1615年
サンフランシスコ・アジア美術館蔵
サンフランシスコ・アジア美術館蔵
By Daderot [CC0], via Wikimedia Commons
織部焼 茶器 桃山時代
ロサンゼルス郡美術館
ロサンゼルス郡美術館
See page for author [Public domain], via Wikimedia Commons
織部焼 水差し 桃山時代
シカゴ美術館蔵
シカゴ美術館蔵
織部黒沓形茶碗 江戸時代初期