タイル・キングダム - 笠原町
By Hans O. Karlsson
今回はタイル産業で成り立つ小さな陶磁器の町の物語です。この町はかつて栄えたタイル産業が低迷していましたが、観光スポットとして再び注目され始めました。
笠原町は岐阜県多治見市にある小さな集落です。産業の町で、その大部分は波形のトタン板の壁でできた工場が並び、パッと見た感じでは面白味のない風景が広がっています。しかしその工場の間にある小さな庭や畑には様々な野菜や植物が育てら、見る人を楽しませてくれます。植物たちはこの地の暑く、蒸し蒸しした気候がお好みのようです。
この町は第二次世界大戦後の日本で起こった高度成長期の典型的な例です。敗戦後、日本は戦勝国であるアメリカに占領されました。しかし、このことは岐阜県の小さな町のタイル産業の黄金期に繋がります。この地域は陶磁器生産が1000年以上も遡ることができる地域ですが、実はここでは陶磁器に非常に適した粘土が豊富に採れるという背景があります。これが笠原町の工業化の元になりました。19世期後半、この国が急速な近代化の時代に入ったとき、この町は古いやり方から、ご飯茶碗の工業生産に移行しました。そして日本が東アジアの大国になった頃には、より収益率の高いタイル生産が定着し始めていました。
このタイル生産への変革の鍵となる人物は1908年、笠原に生まれた山内逸三氏です。彼は、京都市陶磁器研究所での研究中に装飾タイルの可能性に気がつきました。故郷に帰った後、彼は釉薬をかけた磁器のモザイクタイルの開発を始め、この地元産業の初期の段階で重要な足跡を残しました。しかし、小さな町の運命を方向付けたのは外国からの影響でした。 モザイクタイルミュージアムの学芸員である村山閑さんにその理由について説明していただきました。「アメリカ軍が占領した日本の建物に入居するとき、彼らはその内部のインテリアを修復する必要がありました。そのために大量のタイルを注文したんですよ。」これまで、タイルは、耐水性、汚れにくい性質、そして簡単に掃除ができるため、日本人は浴室や台所で使用していました。また 小さなタイルは、曲面に沿って貼ることができるため、そのような場所にうまく合っていたのです。「そこで製造メーカーは、外国人もタイルを建物に、そしてまた建物以外のところにも使用していることに気付きました。 たとえば、米国では、自宅用プールのタイルの大きな市場がありました。」
当時為替市場は日本の輸出業者を大きく儲けさせました。 水野雅樹氏にお話を聞いてみました。彼は笠原の大手タイルメーカーである株式会社セラメッセの社長を務めており、タイル業界で40年のキャリアを持ち、その歴史に精通しています。 「この戦後初期には、1ドル360円固定でしたが、これはこの時代、日本タイル輸出の大きなブームを引き起こしました。」
絶好のチャンスに気がつき、多くの茶碗生産者がタイル製造に変わり始めました。 水野氏の父親もその中の一人でした。「陶器作りは、ここの人たちにとって昔からの収入源であり、その他には日本の農村地域によくあるように農業に従事していました。この辺りの山ではあちこちでいい粘土が採れます。 ここで窯を築き陶器を作ることは、生計が立てられる簡単な方法でした。 しかし時代が移りこの地の人々は、劇的に大きな利益をもたらすことができる、より高い付加価値のついた製品を作る方法を発見しました。そこで私の祖父は父にこの新しい製品に思い切って着手するよう説得しました。」
水野氏はさらに話を続けます。「笠原町にもいい時代があったんですよ。会社の社長たちは、工場で働いてくれる人たちを九州まで探しに行っていました。そこから十代の若者たちをたくさん連れてきましたが、そのほとんどは中学を出たての安定した収入を必要とする人たちで、通っていた学校の先生たちが推薦していました。日曜日の休みになると、会社の寮の辺りや笠原の町のあちこちに、彼らがたくさん歩いていたのをよく覚えています。私たち、地元の子供たちは、好奇心で彼らの後をこっそり付いて行ったりしましたが、父親に見つかり叱られたりしたものです(笑)。九州からきた若者たちはみんな貧しく、自転車を買う余裕もなかったほどです。会社の社長たちは責任を持って彼らの親がわりとなり、彼らが結婚するときには仲人を引き受け、あれこれと世話をしたりしていました。この高度成長の時代、笠原町全体で、毎年2000人もの労働者を受け入れていたそうです。私の父もいつも忙しく、家で夕食を食べることも滅多にありませんでした。父や他の社長たちは、常に新しい労働者を探していましたよ。しかし、私は工場で働きたいとは思っていませんでした。そこでの作業は危険で、泥臭く、大変なものだったからです。」
最終的に水野氏は家業を継いだのですが、それには少し消極的だったようです。水野氏はその時のことをこ話してくれました。「私は十代の頃はずっと家族と離れて過ごしました。最初は名古屋の学校の寮に住んでいましたが、その後東京の大学に進学し、大学の寮に住んでいました。私は人が多すぎる都会でのサラリーマンは向いていないと思い、家に戻ってきましたが、最初の数年間はそれは大変なものでした。私は仕事が終わると帰ってきたことを後悔し、名古屋の友達のところによく行ったものです。しかし、時は過ぎ、みんな結婚して落ち着き、私もついに自分の将来はタイルビジネスにあると腹を括りました。」
モザイクタイルミュージアムの屋根に使われたタイルの金型
昔話を話す水野氏はとてもソフトで優しく、非常に丁寧で明確に私たちの質問に答え、そしてこの業界をしっかりと見据えている人物だと感じました。そしてこの仕事にふさわしい方だと誰もが感じることでしょう。
水野氏のタイル業界でのキャリアは戦後の良き時代が終わってから始まりました。「正直に言うと、今うまくやっていけているとか未来は明るいとか感じたことはありません。」と彼は言います。「毎日、来月の売り上げを思い、たとえそれが良かったとしても、来年は黒字のままか?そのさきは?と考えています。考え過ぎかもしれませんが、私の性格でしょうね。(笑)」
笠原町にはその後にも黄金時代がありました。それは1980年代に始まった経済バブルの時でした。水野氏はその当時のことを説明します。「タイル産業のピークは1991年から1992年にかけてありました。その頃の日本経済は、戦後の高度成長以来の活気があり、右肩上がりに大きく成長していました。至る所に高層ビルが建設され、タイルはその外装によく使われる材料になり、国内で行われる多くの建設活動のため、大量生産する必要がありました。その需要はものすごく、笠原の地域経済は盛り上がりを見せました。この町ではほとんどみんなタイルを作っていましたが、それでもその需要に追いつけないほどでした。そして十分な原料を見つけるのにも苦労していました。そんな状況でも私はいつも心配し、ストレスを感じていましたよ。(笑)」おそらく、こんな風に将来のことを考えている部分が、バブルが弾けた後でも、水野氏の会社がうまく続いている理由でしょう。
「今は時代がだいぶ変わってきています。私たちは中国やマレーシアの大量生産者と競争なんて出来ませんよ。低価格で大量生産のビジネスモデルでは出来ないものに焦点を合わせて作っていく必要があります。例えば、高価だけれど洗練されていて、インテリアのアクセントになるような製品のようなものです。もし、デザインが良く、買う側の方の好みに合い、少し高くても予算の範囲内ならば購入するでしょう。しかしながら大きな市場では依然として厳しい状況ですね。現在アメリカの市場では日本製品はたったの2%ほどしかないと思います。」
モザイクタイルミュージアム
学芸員の村山さんに説明していただきました。「タイルミュージアムのショールームフロアのディスプレイをリニューアルした理由はこういうことです。以前は見学者の皆さんに、たくさんのタイルのサンプルを見ていただくだけになっていました。しかし、今回キッチンやバスルームなどへのアクセントになるように、全てタイルを使った部屋に作り替えました。これで訪れる方へタイルを部分的、もしくは全体的に使うとどのような感じになるかについて、もっと分かりやすくなると思います。」
ミュージアムを作る計画は、第2のタイル産業のブームが終わりしばらく経った2000年辺りに持ち上がりました。かつて栄えた笠原の町は厳しい状況にありました。そのため笠原町は隣りの多治見市に合併されましたが、町の人たちはタイルの町という個性を生かし、その産業と町を再び活性化させたいと考えました。ミュージアムはその起爆材になるでしょうか?
先ほど登場した水野氏にミュージアムについてお聞きしました。「多くの地元の人は、大変なアイデアだと思っていたようで、誰がタイル美術館にいきたいと思うのか?などの意見が出たりしました。そしてまた多治見市もこのプランにあまり乗り気ではありませんでした。このように紆余曲折があり、やっとのことでミュージアムを作る計画が決まりましたが、地元の人たちはそんな突飛な計画で大丈夫なのかと心配していました。」
しかし、ミュージアムは建設され、何度も計画を練り直しながら20年の議論の末オープンしました。多治見市は2階を除き、ミュージアム建設とその運営に資金を提供することになりました。2階部分については後ほど詳しく説明しますが、この部分は基本的に、地元のタイルの展示と販売促進のためのスペースです。ミュージアムの2階以外の部分は笠原の文化を保存し、PRすることができるようになっています。それでもほとんどの人はこれが笠原町にとっていい投資になるのかと心配していました。ところが、誰もが驚いたことに、オープン初日から観光客が続々とやってきたのです。
「このミュージアムはいい時期にいい形でオープンできたと思っていますよ。建物のデザインは斬新ですが、柔らかで自然にうまく溶け込むような感じがありますね。」と水野氏は話してくれました。実際に多治見周辺の山では、ミュージアムの形に似た粘土を掘った跡がたくさんあります。そこは片側の土が剥き出しになっていて、上の辺りに木々が生えています。「それにロマンチックな雰囲気もありますね。言い換えるとカワイイということかな。」と水野氏は微笑みながら付け加えました。CUTE(キュート)つまり日本語ではカワイイと言いますが、これは日本の女の子たちの間で愛されている言葉で、彼女たちのコンセプトでもあります。このミュージアムはそういうビジュアル的なカワイらしさを備えています。また1階のDIYワークショップコーナーでは多くの人たちが楽しんで作っているところを目にします。
このミュージアムでは他にどんなものが見られるでしょう?ミュージアムは4階から下に順路が続き、4階では昔の家庭用品や装飾品が展示されています。銭湯の壁に施されていたタイル壁画のコーナー、タイル張りのキッチンシンク、トイレなど見ることができます。西洋人は入れないような小さなバスタブもたくさん展示してありますよ。
ここに飾られているタイルは、昨年の工芸品のように感じられます。 色とパターンは非常に「レトロ」に感じます。このフロアの展示タイルは、主に耐水性に優れているタイルが建物内の簡単なメンテナンスのために使われていた時代のものです。これは戦後初期のタイルの主な使用方法でした。
ここに飾られているタイルは、昨年の工芸品のように感じられます。 色とパターンは非常に「レトロ」に感じます。このフロアの展示タイルは、主に耐水性に優れているタイルが建物内の簡単なメンテナンスのために使われていた時代のものです。これは戦後初期のタイルの主な使用方法でした。
このフロアにはレトロなタイルとは対照的に、天井に大きな穴があり、それが斬新さを醸し出しています。台風などでたくさんの雨水が入ってきたらどうなるのでしょう?「みんなそのデザインに頭をかかえましたよ。(笑)」と水野氏は冗談まじりに話してくれましたが、建築家はこの穴のデザインを強く主張したそうです。その穴から空を見ると、展示室の小さなスペースが開放的に感じられ、建築家の考えがよく分かります。
3階は定期的に展示内容を変える企画展のコーナーがあります。このフロアでの展示はタイルの生産、笠原町の歴史、建築物の中でのタイルと3つのテーマによって構成されています。学芸員の村山さんによると「企画展の内容によって、訪れる人の層も変わってきます。以前開催した企画展では、若いアーティストの作品を、より視覚的に訴えかけるようなユニークな方法で展示しました。その時は若い方がたくさん訪れていました。その後に江戸時代から明治時代にかけて(1603年〜1868年)、お寺で使われたタイルの企画展を開きました。この時は明らかに訪問客の層が変わり、年配に方々にたくさん見ていただきました。」この記事の取材時の企画展では、タイル黎明期から外装のためのタイルの大量生産の起こった80年代90年代初頭までの、笠原の産業の時間旅行ができる展示となっていました。
階段を下って2階に入ると、そこは現代の展示になっています。この階には小さな様々なショールームが作られていますが、それぞれの生活空間でのタイルの効果的な使い方を提案しています。先ほど水野氏は、最近の消費者たちは「少し値段は張ってもインテリアにアクセントをつけ、センスアップになる上質な製品」を探している、と話しました。またこのフロアでは、生活環境の中での様々なシチュエーションのブースでの自撮りも人気があるようです。
最後に1階にはタイルの体験コーナーが作られており、モザイクタイルを選んで、自分の好みの柄を作ることができます。このコーナーは若い女性たちや家族連れの方々にとても人気があります。
ミュージアムを将来どのように発展させていきたいのか、村山さんに尋ねました。「それは地元のコミュニティと協力することが必要でしょうね。そして、アーティストたちを地元の製造者のみなさんとつなげ、新しいデザインや他への応用を試すことができたら素晴らしいと思っています。実際にミュージアムと周辺のコミュニティが更に繋がっていくことを願っています。この周りにはみなさんが知らないような興味深い場所もたくさんありますからね。」
前述の水野氏も同じ意見を持っており、「例えば笠原町にはお花見にぴったりの素晴らしい公園があります。静かで美しい環境でピクニックを楽しめ、遠く離れた海までの景色を眺めることもできるんですよ。」と話してくれました。
ミュージアムからの帰り道、車をゆっくり走らせ、笠原の銀座通りと呼ばれていた路地を通っていきました。昔は活気に満ち、たくさんのお店が立ち並んでいたそうです。そこに昔から続いている本屋さんがあり、まだお店をやっていました。この通りは笠原町の神明神社へ続く参道であり、私の妻はそこにかつてあったお店を指差しながら教えてくれました。「前は金魚やさんがあったんだよ。それからこの道を神社の方にもっと行くとおもちゃ屋さんもあったよ。子供たちはみんなそのおもちゃ屋さんによく行ったんだよ。」
それから神明神社に立ち寄り、有名な山内逸三氏のタイルの作品を見にいきました。このタイルの作品のように、この町にある素敵なものは宝探しのようで簡単には見つかりません。でもこれで宝探しの手がかりになったでしょう。このタイル・キングダム笠原町に来たら、素晴らしい冒険が待っていますよ。
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