アメリカン・ジャパニーズとしての暮らし
小笠原マーサ
by Hans O. Karlsson
日本で暮らすことを考えたことはありますか?もし、そんなことを想像する人は、日本人と恋に落ちたことが日本移住のきっかけとなり、日本の郊外の都市が自分のホームとなったアメリカ人女性についての今回の記事は興味深く感じることでしょう。
ここからの文章は、多治見市在住40年になる小笠原マーサさんへのインタビューの要約です。もっと詳しく知りたい方は、インタビューを動画でも載せてありますので、コーヒーを煎れて(長い動画ですので・・・)、マーサさんが直接話している動画をご覧ください。
ここからの文章は、多治見市在住40年になる小笠原マーサさんへのインタビューの要約です。もっと詳しく知りたい方は、インタビューを動画でも載せてありますので、コーヒーを煎れて(長い動画ですので・・・)、マーサさんが直接話している動画をご覧ください。
マーサの世界
「他の誰かのようになりたいと思ったことは一度もありません!」小笠原マーサさんは生まれ育ったところから遠く離れたこの地で、そのカラフルな佇まい、家そして2つの文化をミックスさせたライフスタイルを通して、彼女の主義を表現しています。彼女は多治見にもよくある伝統的な日本家屋に住んでいます。この家が建ったのは、多分彼女の生まれた頃と同じくらいでしょうとマーサさんは言います。
私は日本の伝統的な生花が飾ってある玄関で迎えられました。もちろん日本の習慣通り、ここで靴は脱いで上がります。狭い廊下を進んでいると、しっかりした板張りの床から軋む音が聞こえ、安心感を与えます。それは家の中に家族がいることが伝わるからです。そして小さなリビングルームに入ります。ここは床が畳張りになっていて、部屋の真ん中にはコタツが置かれていてとても日本風になっています。
コタツのテーブル板の下からの分厚い毛布で机全体を囲み、床に座って足を毛布の中に入れます。それは天の恵みを感じるほどのテーブルです。欧米人にはあぐらをかいたり、正座をすることにすぐ抗議することがあります。おそらく中国人もアフリカ人も同じかもしれません。床に座るのは日本の典型的な習慣です。しかし、こんな寒い日には、足を温めてくれるヒーターがついたコタツはとてもいいんですよ。
この部屋と家はマーサさんの世界観が溢れていますが、彼女は偶然この町に来ることになって、偶然この家に住むことになったのです。
伝統的な日本家屋での暮らし
マーサさんはこの家にうまく馴染んで暮らしています。家は古い造りなので、お湯が蛇口からすぐ出るわけではなく、洗濯機も家の外に設置してあります。彼女は「私はそれに慣れてますし、気になりませんよ。」と微笑みました。近代的な住宅と違い、少しばかりの不便さもありますが、家を暖かく居心地のいい場所に保っていることを感じられます。それは多くの伝統的な日本好きの外国人のみなさんも同じように思うことでしょう。
マーサさんは大人になってからの人生のほとんどを多治見で暮らしています。彼女は日本に帰化しており、今後もアメリカに戻る予定はありません。アメリカには定期的に訪れ、彼女は積極的にアメリカの文化、具体的にはダンスを広めています。
40年前日本に来て、日本語を4年間勉強した後、陶芸家のタカシさんと恋に落ちました。彼が多治見市にある陶磁器の学校で有名なIshoken(多治見市意匠研究所)で勉強するため、二人で多治見市に移り住みました。二人は彼の卒業後、別のところに移るつもりでしたが、多治見に家を買うことになり、ここにずっと住むことになったのです。
夫のタカシさんが数年前に亡くなり、マーサさんは現在一人で暮らしています。彼女のストーリーは、どのようにして異文化に溶け込み、そこで生きていくかというヒントに溢れています。
このインタビューを上の動画を再生してオーディオ録音でもお楽しみください。マーサさんの話し方からより彼女の人柄を感じていただけますよ。
なぜ日本に?
マーサさんが1993年に書いたエッセイでは「時々、フッと私の心の中で、3人の人間が問いかけてくるんです。『私はここで何をしているのかしら?どうやってここで生活することになったのかしら?どうして床に座って朝ごはんにお魚を食べてるの?』それは特に批判的な問いかけではありませんが、自分のなかで驚きがあります。高校生の私に、将来あなたは日本人と結婚して、ずっと日本で人生を歩んでいくことになるよと言われても、冗談だと笑い飛ばしたことでしょう。その時の私は日本がどこにあるのかも知りませんでしたから。」
マーサさんはチャイを啜りながら話を続けます。「アメリカでの学生時代のことですけど、私はアーラム・カレッジという小さな大学に入学したのですが、そこには留学プログラムがありました。そして学校から外国語を選択するようハガキが送られてきました。ここ数年はもっとエキゾチックなスワヒリ語のコースがあるようですが、私が選ぶ年にそのコースがあったらアフリカに渡っていたかもしれませんね。私はいつもみんなと違うことをするのが好きなので・・・。しかし、私が入学した年には日本語が一番エキゾチックな言語で、とても魅力的でした。当時日本語が専攻できる学校が2つあるうちの1つだったと思います。日本語を学んだ人は周りにいなかったので、試してみることにしました。それが私の人生を変えたのです。」
ショックを受けた日本人の子供たち
マーサさんは学生たちに英語のプライペートレッスンを始めました。彼女は自分の時間を完全に自分でコントロールしたかったので、よくある英会話学校や小中高校で働くことは望んでいませんでした。おそらくそれが日本での生活にすんなりと馴染むころができた理由でした。
友達はとても大切なものです。マーサさんには友達や知人がたくさんいて、その多くはダンスでつながっている仲間です。大きなダンスイベントや旅行の企画、ダンスの関わる人を日本へ紹介し、日本人の海外ダンスイベントへの参加などたくさんのことを手伝っています。彼女は日本語が流暢ですが、この国ではそれが重要になってきます。彼女が日本に来た最初の数年間は言葉の壁が原因で、うまく溶け込むことができなかったそうです。「周りの人は様々な集まりに私を誘ってくれましたが、私は全く会話についていくことができず、みんなもそのうちに私に話すのを諦めてしまっていたんですよ。でも今は英語と同じくらい日本語も身近に感じています。最近なんかはみなさんに『おお!あなたは私より日本人っぽいですね!』と言われるんですよ。それは私にとっては褒め言葉ですし、さらに日本文化に関わる趣味もたくさん持ってますよ。お琴や三味線を弾いたり、生け花をしたりね。日本人のみなさんは『私は日本人だけど、三味線はやりませんよ。』と言いますので私は『そうですか。あなたはアメリカ文化のパッチワークをされているでしょう?私はしませんけどね。でもパッチワークがあなたを私よりアメリカ人っぽく見せるわけじゃありませんよね。』と答えます。多分人々は文化的なレッテルを貼るのが好きなんでしょうね。なので私がここに永住するか決める時、私が一生ガイジン(文字通り外人)として扱われることができるかどうか真剣に考えましたよ。」ガイジンは「外国人」を意味しますが、外から来た人、つまり仲間には含まれていないという意味合いもあり、一部の外国人が嫌っている言葉です。
こういうことを田舎の、さらに多治見のような保守的な町でやっていくことは難しいと感じますか?と聞いてみました。「今ではもうありませんが、来た当時は子供たちが私を指差して『ガイジンだ!ガイジンだ!』と言ってきたりすることがありました。そこで私が話しかけると子供たちがショックを受けたりしていたんですよ。」
少しずつ居心地の良くなってきた場所
「一つだけイライラしてしまうことがあるんですが、それはみんな私にどこから来たのか聞いてくることです。『多治見から』と答えるとびっくりされるんですが、さらに「でも本当はどこから来たの?』と聞いてくるんです。私はここで暮らして45年になりますが、それは市民とみなしてくれないのでしょうか?私が他の国出身であることを言わない限り、みんなは満足してくれないようです。みんな自分と区別したいのかなと思いますね。」
「私は自分のことをアメリカン・ジャパニーズと呼ぶのが好きなんです。私は国家主義者ではありませんし、最近ではアメリカの市民権を持たないことは幸せだと思っています。あそこには関わらないほうがいいですね。」と笑いながら言いました。「もちろん向こうには家族や友達がいますが、もう自分がアメリカ人っぽい感じはしません。私は2度とそこに住むことはないでしょうが、日本にも執着したいとも思っていませんよ。将来は他の国に住んでいるかもしれませんしね。」
「私は最初、日本人よりも日本人になりたいと思っていました。例えばマクドナルドに行くのを拒否していました。来日する外国人の典型になりたくなかったのです。そうこうするうちに自分の持つ2つのアイデンティティが溶け合い、半分半分の居心地の良いステージを見つけました。そうしてようやくここで気持ちよく生活できるようになったのです。」
「私は舞踊団を訪問するために、通訳作業も行っています。私は英語と日本語をすぐ切り替えることができます。バイカルチュラル(2つの文化を持ち合わせる人)でなくてもバイリンガルになれると思いますが、私がバイカルチュラルになれたのは私にとってもっと嬉しいことです。
隔てた壁を取っ払う
マーサさんは日本はそこにどっぷり浸かると全く違う経験になると思っています。「外国人のみなさんは初めてここに来るとこう言います。『ここの人たちは本当にフレンドリーで暖かい人たちですね!』でも、その外国人たちがそこに住みだすと、日本人ははっきりと自分の考えを出さないので、自分には秘密にされているのではないかと思い始めます。日本人の思っていることは読みにくく、何が言いたいかわからないのです。多くの人はそこの壁を超えることが出来ないのではないかと思っています。」
「私の日本での生活がうまくいったのは、単にここに長く住んでいたからだと思います。でも夫からも助けてもらいましたね。彼はいつも私のために表に出て自分が口を出すことはせず、私のことは私がやるようにさせました。彼がいなくなった今、それは私にとっていいことだったと思います。」
「私は外国人女性で良かったとも思っています。私は日本人女性のような厳しい基準に縛られていないからです。『マーサは日本人じゃないから、日本人と同じように出来るという期待は持てない!』とみなさんは言いますので、それを自分のいいように解釈することを覚えましたよ。」
「私にとって大きな助けになったもう一つのことは、友人たちです。その多くは外国人ダンサーで、海外に住んでいます。ダンスインストラクターをしている友達が来ると、ここに泊まって、夜には温泉に行きます。その後ここに戻って、居心地のいい布団で眠ってもらいます。これは彼らに簡単に本物の日本を味わってもらえる最高のやり方ですね。そして私はラウンドダンス、スクエアダンス、ラインダンスをしていますが、日本のみなさんのためにダンスイベントをアレンジしています。来月は200人くらいの人たちが来る予定です。また、主にアメリカにダンス関連の旅行も企画していますよ。」
これからについて
日本への移住を考えている外国人のみなさんにマーサさんから何かアドバイスはありますか?また郊外に住むことのメリットはなんでしょう?
「日本の生活費がすごく高いと思っている人が多いと思います。東京は確かに高いですが、田舎に行くほど安くなります。ここでは移動手段としての車とちゃんと生活できるビザが必要です。私がやってきたときはビザの取得はかなり難しかったですよ。」
キーポイントはこちらの文化に適応することです。欧米とは違う点がたくさんあります。例えば宗教に対してですが、多くの外国人は、日本人の信仰心が非常に軽いことに驚きます。神社でのお祓いに、教会での結婚式、仏式での葬儀といろんな宗教で一般的に儀式を執り行います。それはその背後にある宗教哲学からではなく、表面的な儀式を取り入れているのです。その教義よりも実践的な部分が大事のようです。これはマーサにも当てはまります。
「私自身は宗教的ではないので、日本人が宗教についての教義的な考えをほとんど避けていることは生活しやすいです。夫が亡くなったとき、はたとこちらに私の血縁関係がないことに気づき、自分が死んだら私の身の回りの整理はどうするのか心配になりました。アメリカにいる兄弟たちは、私の家には興味がありませんし、そもそもこの家には大した価値はありません。そこで、日本にいる私の兄の娘が私のことに法的責任を負うと同意してくれたので、その辺りの心配もなくなりました。」
「夫のために仏式の葬儀を執り行いましたが、それに伴って亡くなってからも何年も続く儀式を全て辞退することにしました。幸いなことにみなさんも私の考えを受け入れてくれたので、何も問題はありませんでしたよ。」
こうしてマーサさんは周りとうまくやっていくライフスタイルを見つけてきました。彼女は企業社会にも縛られず、自分の仕事は自分でコントロールしてきました。ダンスコミュニティとの関わりは、ある意味で地元にどっぷり浸からない選択をしましたが、世界中の人たちを繋ぐことを楽しんでいる彼女にはぴったりです。彼女の居心地のいい伝統的な日本の家は、近所の人たちだけでなく、世界中の友人たちにも開放されています。肌寒いこんな冬の日はマーサさんのコタツがいっそう心地よく感じられることでしょう。
ここが私の故郷
マーサさんは1993年のことを回想してこう書いています。「(前略)私がアメリカを訪れたとき、自分に変化に気がつきました。自分が発音する「R」と「L」が混ざったりすることはありませんけれど。(アメリカに着いた最初の何日かは、みんな私の少しぎこちなくなった英語をからかってきたんですよ。)言語よりも価値観や考え方が変わってきたと思いました。気がついたらアメリカを外から見ているような感じでした。
私が日本に住んでいると話すと、みんな決まって「何のために?」と聞いてきます。そう言われると私は何を言っていいか分からなくなりますが、日本は私の故郷で、それ以上の理由はありません。」