part two
「焼物の焼き上がりの雰囲気は使用している原料の粘土の良し悪しによって決まります。言い古された言葉ですが、一に土、二に窯、三に細工と言われています。いい土が近くにあるということは、焼物づくりに大事なのです。例えば小名田町の隣りの高田町では江戸時代中期から酒などをいれる容器である徳利の生産が続けられていますが、そこで採れる土から作られた焼物は液体がしみて漏れることなく、長時間保つことができるので徳利を作るのに向いています。」
青山氏は小名田には白天目の作成に向いた土が採れる場所があったと考え、それを探し始めました。「白天目の再現には500年前、それがつくられた時と同じ粘土、同じ釉薬をつくらなければオリジナルの茶碗には近づけないだろうと考えました。その為には古窯跡の近辺にある原料、粘土を試験にして何度も焼成実験をして、その結果から次の手立てを考えて、再度焼成実験を重ねていくしかないと思い、手当たりしだいに粘土を焼いて白天目と比較をしてみました。」
小名田は岐阜県多治見市に位置します。多治見市は美濃国の領内で、古くから志野焼、織部焼を生産していました。
1994年に小名田窯下窯古窯跡群6号窯で白い茶碗が発掘されました。この発掘された茶碗は、志野に使われている五斗蒔や大萱の『もぐさ土』とは若干違う土味でした。言い換えれば、よく焼き締まった感じの土味だったのです。そこで、織部や志野に使われている、五斗蒔の粘土と、自分が採取した白天目の土と推測する粘土を、化学的な胎土分析によって比較をしました。
素地の胎土分析表
長石 |
粘土 |
珪石 |
その他 |
|
一般的な志野に用いられる粘土 (泉陶磁器工業組合) |
6.56 |
31.37 |
61.07 |
0.49 |
白天目茶碗の胎土になると推定する粘土 (高田岩ヶ峠) |
10.77 |
48.52 |
40.71 |
0.81 |
多治見市美濃焼ミュージアム企画展 白天目 灰釉古陶の再現 パンフレットp.4より
白天目の釉薬と志野焼の釉薬の違い
「小名田窯下窯の発掘調査では、6号窯から白い天目碗陶片が4点見つかりました。それ以前の美濃古窯跡研究会の調査で1号窯跡から1~2点、採集されました。」と青山氏は説明します。」と青山氏は説明します。「1つは本当の白色で他の物は淡緑色をした陶片4点と、採集品で茶色かかった陶器片が一点。それらはオリジナルの白天目に共通していると結論つけられたものとそうではないと結論されたものとがありました。
実際の白天目と比較して識別できる簡単な方法があります。釉薬の掛かった部分に『猫のひげのような貫入』があれば・・・。」と言って彼はしばらくの間、仕事場をごそごそと探し回って、割れた陶器のかけらを探しました。
実際の白天目と比較して識別できる簡単な方法があります。釉薬の掛かった部分に『猫のひげのような貫入』があれば・・・。」と言って彼はしばらくの間、仕事場をごそごそと探し回って、割れた陶器のかけらを探しました。
「これらのひびを見てください。ひびは貫入と言いますが、これは小名田で作られたもので、その独特な特徴です。小名田の土はこのように釉薬に影響します。さて志野焼のかけらと比較して見ましょう。あなたは荒川氏の考えた白天目は志野焼だという説を思い出しませんか?」と青山氏が尋ねました。
この二つの焼物の陶片の特徴は釉薬のかかっているところの気泡です。白天目に見られる気泡は、釉薬の透明度が高いためはっきり見ることができ、志野では透明度が低いため、気泡ははっきりとは見えません。しかし、志野の気泡を拡大してよく見て見ると、釉薬の中の気泡が連続して引っ付いている傾向があります。また、白天目の気泡は一つ一つが引っ付かず、ポツポツと独立していることが分かります。
青山氏は尾張徳川家伝来の白天目を初めて見たときの感想を話してくれました。「1979年、名古屋の徳川美術館で白天目を初めて見た頃には、荒川氏の述べられた志野説については全く知りませんでした。美術館の白天目の釉溜まりを見て、それが小名田の山茶碗に掛かった自然釉(灰釉)に似ていると感じ、灰釉ではないかと思いました。また、小名田の発掘調査以前から古陶器の収集家の方が1号窯での陶片を所持されており、あれは灰釉であるといった噂を聞いていました。そしてこの頃、私の草の頭窯では土岐川の川原から採取した長石を使用して志野釉を作って焼いていたので、長石釉では淡緑色の透明釉は出来ないことを知っていました。」
土が重要
「私はその関係を紐解く箇所を見つけました。まず、小名田で発掘された焼物の釉薬がかかっている部分には、美術館の茶碗にも見られるユニークなひびや線があります。それは窯で焼いている間に灰釉薬が表面に浸透するために現れていることが分かりました。灰釉と粘土の相互作用で起こる特有の現象です。素地と釉薬の熱膨張率の関係から起こり、それによって貫入(ひび)が入ります。その釉薬との反応は小名田の土でも起こり、採れた土によってその土地特有の現象が現れます。」と彼は説明しました。
灰釉は、草木の灰から作られた釉薬です。釉薬はガラス化し、素地の表面に重なり、染み込む特性があります。木灰釉は、ほとんどが暗褐色から淡緑色に焼き上がります。小名田の焼物はガラス質の透明釉で、素地と釉薬がお互いに反応し、その結果白色から黄色の仕上がりになります。青山氏は土と釉薬が焼物を作り出す過程において最も重要な要素であると強調しています。
「そうです、土と釉薬が重要なのです。しかしこれらのサンプルを見て下さい!」と言って彼はこれらの二つの碗をテーブルの上に置きました。
「そうです、土と釉薬が重要なのです。しかしこれらのサンプルを見て下さい!」と言って彼はこれらの二つの碗をテーブルの上に置きました。
「さて、この二つの違いが分かりますか?釉薬の違いだと思いますか?聞いて驚くかもしれませんが、これらは同じ釉薬なんですよ。一つはツヤがよく出ていますが、もう一つはあまり光沢がありません。それは釉薬の下の土が違うのですよ。この土が焼き上がりにおいてとても大事なことです。古い時代にはそこで採れる土が窯を作る場所に最も重要な理由でした。」と青山氏は説明し、私たちを驚かせました。
形についてはどうでしょうか?白天目に見られる少し歪んだラインは、その後さらに不規則な形である織部焼へも発展しますが、青山氏の見解によると当時の技術が原因で歪んでいるそうです。当時の陶工の使っていたろくろは現代のようにモーターが付いておらず、手回しでした。当時のろくろはスピードが遅く、回転力が弱いので現在と違う技術が用いられました。そこで彼らは粘土で長い紐を作り、それを粘土紐輪積みして指でつまんで接着して、ろくろを回転させ、碗の粗径を作りました。そうすることによって不完全な形になります。茶碗の外と中の壁には微妙な歪みが生まれます。
白天目再現に挑戦
青山氏は現在伝承され、いくつかの美術館に所有されている白天目が小名田で作られただろうと考えています。「小名田で作られた焼物に現れる『猫のひげ』のような貫入は独特なものですが、ここで採れる土と灰釉の組み合わせで焼かれることによって現れます。これらの『ひげ』は美術館に所蔵されている白天目にも見られます。この共通した痕跡を見て、私は地元、小名田に昔あった技術を使って、地元の粘土から白天目を再現しようと決心しました。そのために小名田の陶工たちが何世紀も前に使ったものと同じ土を探さなければいけなかったのです。私は一生懸命探し、窯跡近くからそれを見つけ出しました。」
「そこで釉薬についての問題が出てきました。私はこの焼物に見られる典型的な猫のひげのような貫入と、白さを持った白天目を作り出すために、小名田の土と灰釉の組み合わせが鍵になると確信しました。古い時代の焼物はここ小名田の白山、尼ヶ根そして小名田窯下で作られましたが、釉薬がかかっているところに、全てこの猫のひげのような貫入が見られ、この地区では共通した原料が使われておりました。」
「そこで釉薬についての問題が出てきました。私はこの焼物に見られる典型的な猫のひげのような貫入と、白さを持った白天目を作り出すために、小名田の土と灰釉の組み合わせが鍵になると確信しました。古い時代の焼物はここ小名田の白山、尼ヶ根そして小名田窯下で作られましたが、釉薬がかかっているところに、全てこの猫のひげのような貫入が見られ、この地区では共通した原料が使われておりました。」
青山氏に小名田の白い茶碗の発掘当時のことを聞いてみました。「1994年、小名田窯下古窯跡の発掘調査があり、非常に白い茶碗が見つかったと聞きました。やった!こここそ白天目の誕生地に違いない!!と思い、私はどうしてもこの目で見たくなりました。発掘された茶碗は灰釉で猫のひげのような貫入はあったのだろうか?と思い、親しくしている考古学者の田口昭二氏がこの発掘に関わっていたので、私はその茶碗を見せて欲しいと彼に頼みましたが、それはまずこのニュースを新聞に発表しないといけないということで、なかなか叶いませんでした。現場で実際に作業している皆さんが、大変な思いをして発掘した白い茶碗が、今近くにあるのに!と逸る気持ちを抑えながら、その時が来るのをじっと待ちました。」
「このニュースが報道され、私はついにその茶碗を見ることが叶い、見てみると、美術館にある白天目と同じような茶碗が確認できました。小名田の土から出たものと美術館蔵の白天目の共通点をきっかけにして、それまで推測していたことに自信がつきました。そしてすぐに私は教授に白天目を忠実に再現できると話しました。彼はその計画に賛成したので、私は白い茶碗を作り、何度も彼に見てもらいながら試行錯誤しました。」
「オリジナルととても近いものが出来たと思い、2000年にその再現が完了しました。私は小名田窯下古窯跡で見つかった茶碗に似た、ガラス質で透明の灰釉をかけました。小名田ではやはり長石が採れる場所がなかったと思われるので、長石の割合をうんと少なくした釉薬を調合したのです。そしてその釉薬と小名田で採れる土を使って焼くと、二つの収縮率の違いによって猫のひげのひび割れと、釉薬がかかった部分に見られる気泡も再現できました。」
また釉薬と小名田の土の作用によって白く焼きあがる現象については『多治見市美濃焼ミュージアム企画展 白天目 灰釉古陶の再現』のパンフレットp.6にこのように説明されています。
また釉薬と小名田の土の作用によって白く焼きあがる現象については『多治見市美濃焼ミュージアム企画展 白天目 灰釉古陶の再現』のパンフレットp.6にこのように説明されています。
「白天茶碗の再現に用いた灰釉を分析した結果からは、釉自体に素地を白色に見せる要因があることも分かりました。分析結果を寄稿してくださった太田敏孝教授から、それは素地と釉層の接点・界面でのカリの濃化により、白色に見えるものだとの教示をいただきました。つまり、 白い胎土とカリを多く含む釉が融合した結果、白さの際立つ釉調になったのだというのです。 小名田窯下古窯跡群から出土した白天目茶碗の白い色も、同様の現象によるものだと考えられます。」
さてパート1で問題に残した美術館蔵の白天目に見られる黒いプツプツについてお話しましょう。荒川豊蔵氏はこれについて、裸で焼いたため、窯の中で舞った砂ほこりか付着して出来たと書いています。
そこで青山氏は教授にもう一つ再現したものを渡し、二人で2012年まで毎日お抹茶を点てて使ってみたそうです。すると、釉薬がかかった部分の気泡が潰れ、その小さな穴の中に汚れがたまり、黒いプツプツが現れたのです。この出現によって重要文化財に指定されている白天目と事実上同一であると証明できたのです。
焼物は何十年もしくは何百年もの使用や、長い月日が経つと経年劣化し、その姿が変わります。そういった部分を踏まえ、青山氏は10年以上使って変化を待つ必要がありました。また、高台付近の釉薬がかかっていない部分は何百年も前に作られた美術館蔵の白天目に見られますが、茶色に変色しています。これも元は白かったのが経年によって変化したようです。
「この本の徳川美術館の茶碗の写真を見てください。この上に再現したものを置いてみますね。多分、どっちがどっちか見分けがつかないでしょう!」と彼は笑いながら言いました。確かに本に掲載されている徳川美術館蔵の白天目の写真と、青山氏が再現した白天目はびっくりするほどよく似ていました。
日本での多くの意見は小名田の集落の古い窯で行われたように、小名田の土と灰釉を使うことによってのみ、現在重要文化財に認定されている白天目の制作が可能だとなっています。青山氏と彼の協力者たちによって、志野だと言われていた白天目は小名田で灰釉で作られたという説が強くなりました。
青山氏から世界の皆さんへのメッセージ
白天目の本当の起源に対しての認識は欧米にはまだ届いていないという事実がありますが、青山氏はこれに対して欧米の読者に何を感じて欲しいと願っているのでしょうか?
「本当にそうですね。日本の陶磁史は過去数年間で重要な再発見がありました。しかしながら、これが全てではありません。私はもし白天目が存在していなかったら、日本の陶器はどうやって発展したのかとよく考えます。白天目の後の時代にやってくる、現在こんなにも有名な桃山陶の歪んだ形は現れたでしょうか?結局、志野と織部は桃山時代の前の100年余りの発展の結果、美濃地方に受け継がれました。今、私は、白天目は志野や織部の時代のものではなく、そういう時代を導き出した時代のものだと捉えています。その発展は美濃焼ルネッサンスと革命的な新しいデザインの誕生をもたらしたと言えるでしょうね。」と彼は答えてくれました。
「私の一生をかけた仕事は、これを深く理解し、ろくろをひき焼物を作り、過去の技術を探ることです。今私は朝鮮に起源を持つ須恵器と言われている5世紀後半に起こった猿投焼や美濃の灰釉陶や山茶碗を再現しています。また灰釉を作る古い技術も深く探っています。そうすることで、小名田の地にあるものを吸収し、学び、現在そして将来、私の作品を楽しんでくれる人たちのために、こういった技術を取り込んで制作して、現代の生活に結びつけた作品を作っていきたいと思っています。」
あとがき
青山氏のお話を初めて海外の方々へ向けて執筆出来たことを嬉しく思っています。今年のこの灼熱の多治見の夏に、多分15回くらい青山氏のところにお邪魔して取材させていただきました。毎回、彼は白天目に抹茶を点てて出してくれました。おそらく室町時代の武野紹鴎はそれと同じような天目茶碗を使ってお茶を点てていたのでしょう。
青山氏は陶器の世界に大きな貢献をしたと思いますが、立派な白天目でお茶を出し、私たちのような一般人に体験させてくれるというのは、彼の貢献の中でも大きな一つになるでしょう。美術館に保管されている歴史的な白天目は文化財として重要だと思いますが、運が良くなければ美術館で見ることはできませんし、ましてや使用することは叶いません。しかし、青山氏によって、実際に生きた道具として使う事が叶った私は本当にラッキーな思い出となりました。
本来茶碗というのは使うためのものですから!
Hans Karlsson
Onada, Tajimi, August 28, 2018
青山氏は陶器の世界に大きな貢献をしたと思いますが、立派な白天目でお茶を出し、私たちのような一般人に体験させてくれるというのは、彼の貢献の中でも大きな一つになるでしょう。美術館に保管されている歴史的な白天目は文化財として重要だと思いますが、運が良くなければ美術館で見ることはできませんし、ましてや使用することは叶いません。しかし、青山氏によって、実際に生きた道具として使う事が叶った私は本当にラッキーな思い出となりました。
本来茶碗というのは使うためのものですから!
Hans Karlsson
Onada, Tajimi, August 28, 2018
Notes
- Moxa [eng: Mugwort] earth is regarded as highly suitable for making chawan. Mugwort is a common name for several species of aromatic plants in the genus Artemisia. In Japan, the fuzz on the underside of the mugwort leaves is gathered and used in moxibustion. This is a traditional Chinese medicine therapy which consists of burning dried mugwort (moxa) on particular points on the body. In Japanese pottery, the term “moxa” is used to express the lightness of “moxa earth” (see image). It is also described as having a “frogs’ eyes” quality because of the tiny Quartzite (keisa ja:珪沙) particles it contains. Moxa earth is regarded as ideal for making chawan with a rough, voluminous quality.
- Arakawa published his thoughts on Shiro Tenmoku in “Shino, Kiseto, Setoguro” (ja: 志野・黄瀬戸・瀬戸黒), Heibonsha, book 11 of 28 in the series “Nihon Tougei Taikei” (ja: 日本陶磁大系), 1989, Toyozō Arakawa ;(ja: 荒川 豊蔵 ), Junichi Takeuchi (ja:竹内 順一)
For more background, see this older story in which Aoyama-sensei discusses the developments that led to Shino and Oribe ware.