part 1
「子供が親の背中を見て育つように、その土地にあるものを自然に吸収することに努めてきました。」
これは多治見市小名田町在住の実験的考古学に携わる陶芸家、青山双渓氏の言葉です。小名田の古い窯跡の歴史を遡ると、日本の陶磁史において興味を掻き立てられるような史実、痕跡が発見されているようです。この物語のハイライトは、これは日本古い時代に作られた白い茶碗〜白天目〜にまつわる話です。
これは多治見市小名田町在住の実験的考古学に携わる陶芸家、青山双渓氏の言葉です。小名田の古い窯跡の歴史を遡ると、日本の陶磁史において興味を掻き立てられるような史実、痕跡が発見されているようです。この物語のハイライトは、これは日本古い時代に作られた白い茶碗〜白天目〜にまつわる話です。
青山氏は訪れた人に彼の再現した白天目でお抹茶を点ててくれます。
青山氏がこのことについて話し始めると、彼の熱心さが伝わり、こちらもその魅力に引き込まれてしまうようです。私たちは扇風機のかかる作業場で、彼の点てるお抹茶をお供に作品のお話を聞き、いくつもの灼熱の夏の午後を過ごしました。そのストーリーを聞いていると、白く美しい抹茶茶碗を通して、小名田の古い窯がもう一度蘇ってくるかのようです。彼がお抹茶を注いでくれた白天目の価値をその時もし知っていたとしたら、私はその扱いにとてもハラハラしたでしょう。彼の窯で同時に焼かれた100個程の茶碗のうち、たった2つほどが白天目として納得できる作品になるそうです。小名田の古い窯跡にたくさん捨てられた茶碗が発見されたのにはこういった同じような理由があります。そしてその発見によって日本の陶器の歴史が再検討されたのです。
小名田は岐阜県多治見市にある町です。昔の地名では美濃国に位置し、美濃は古くから志野や織部を代表とする美濃焼の生産で有名です。
1500年代、当時の陶工たちにとって、一度取りかかったら何日間も作品を焼き続けなくてはいけないという作業はとても骨の折れることでした。このような暑い夏の日は、倒れるほどだったことでしょう。彼らは小名田から採れる珍しい白い土を上流階級のための茶碗に仕立てました。貴族、僧侶、武士たちは昔から茶道を楽しんでいましたが、この時代お金持ちの商人の間にもお茶を嗜む人たちが増え、一般の人の間にもお茶を飲む習慣が広まっていたのです。しかし、今回の話で取り上げているような高貴な茶碗は上流クラスの人達しか手にすることはできませんでした。当時の小名田の窯ではそういった人たちのための茶碗を作っていました。
古い見解
東京国立博物館に『月次風俗図』(01)といわれる室町時代の毎日の生活を描いた素晴らしい、生き生きとした絵がいくつも残されています。これは平凡社から出版されている「茶の湯絵画資料集成」の中におさめられています。その絵には、たくさんの人々が登場し、忙しい町の風景を見ることができます。今日でも、それはまだ生きているような賑やかさです。この中では2人の少年が喧嘩し、お互いの髪を引っ張っていたり、刀をぶら下げ、尖った帽子を被っている男が、彼らに向かって走っていたりします。見張人が彼らを止めようとしているのでしょうか?また素敵な着物を纏った女性は太鼓を持ち、誰かに向かって微笑んでいます。そして、煎じ物売もおり、彼は肩からお茶の葉とそれを煎れるための商売道具をぶら下げています。このように賑やかな風景の中に、お寺か神社の門の前の売茶風景も見られ、男性が外でお茶を出しています。
参考文1992年・平凡社・『献茶の湯絵画資料集成』(02)
参考文1992年・平凡社・『献茶の湯絵画資料集成』(02)
『献茶の湯絵画資料集成』という本の中では、当時京都にあった売茶についてこう書かれています。
「室町時代を迎え、商品流通の発展により、喫茶の風はより一層広く庶民の間にも普及し、北野天満宮や賀茂両社、祇園社、清水寺、壬生寺など貴賎衆庶の広い信仰を集めた神社仏閣の社頭門前で一服一銭の茶売人が活躍することになる。この喫茶は単に喉を潤し休息するだけではなく、茶の薬効や清浄力と密接な関係を有しており、また聖なる神仏との境界域を表す意味も伴っていた。」
参考文献1992年・平凡社・『献茶の湯絵画資料修正』 (03).
また七十一番職人歌合の絵の中には売茶風景が詳しく描かれています。お坊さんが、白天目に似た形、色をした白い茶碗を天目台に乗せ、左手でそれを持ち、右手でお抹茶を点てています。これはお茶一杯を一銭で売るため、一服一銭と呼ばれていた商売です。ここで描かれている茶わんは白天目ととても似ていますが、これが白天目であるはずはありませんよ。白天目のような大名物と言われる茶器は、一般の人々で賑わっているような町中にはありませんでした。(04)
「これは中国で作られていた建盞天目を真似たものでしょうね。」と青山氏は資料の絵を注意深く見つめながら言いました。「建盞天目のような中国の茶碗は希少価値が高いものでした。皆が求めたので日本国内で生産され、一般に流通しました。このお坊さんが手にしていた茶碗はおそらく瀬戸(瀬戸は小名田のある美濃国の近くで、陶器の産地)で作られたものでしょう。私はその品質が悪いとは言いませんよ。結局真似できるというのは、それを作れる技術があるということですから。」
日本の国宝に定められている多くの陶器の茶碗が中国で作られたものだということは注目すべき事実であり、そういった中国製の作品の多くは天目茶碗です。それらの作品に見られる中国の技術は極めて洗練されていたのです。昔から中国は日本の陶器文化に大変大きな影響を与えてきました。日本に起源をもつ陶器は瀬戸黒と白天目だけだと言われています。日本人は大陸の陶工たちの技術に追いつくことができず、遅れていたということは日本列島という孤立した島だったからだと考えられます。一方では日本人は中国の完璧な左右対称の美しさから離れ、独自の美意識へ歩みだしたとも考えられます。この部分については後ほど詳しく述べたいと思います。
「日本のお寺は茶道と禅の関係から茶道具をたくさん持っていました。私の推測ですが、その伝統が小名田にたどり着いたのは、お坊さんたちが寺から寺へと旅していたからではないかと思っています。よく知られているように、この近くには虎渓山永保寺という有名で歴史的にも重要な禅寺があります。当時お寺は全国的なネットワークの拠点にもなっていました。永保寺は京都の臨川寺(05)と関係があり、そのことによって京都のお坊さんたちが洗練された茶道文化と茶道具をここに持ってきたのでしょうね。中国の天目茶碗の倣製品を生産する過程のどこかで、日本らしい形が生まれました。私は白天目はこんな風に小名田に偶然生まれたのだと思っています。」と青山氏は説明してくれました。
白天目は近年まで桃山時代後期に作られた志野焼のごく初期のものだと言われていました。しかし早くから違う説もあり、その後現在に至るまでの発掘調査、研究では新しい事実も出てきています。
1930年代には、伝統的な志野焼の陶芸家である多治見生まれの荒川豊蔵氏(1894 - 1985)(06)が、桃山時代の志野焼の起源を探求しました。彼は、志野焼は多治見の近くの可児にそのルーツがあることを発見し、それの再現に着手しました。彼は厚くかけられた白い長石釉を特徴とするこの美しい陶器を作るために忘れられた技術を広めました。現在、志野焼は国内外の陶磁史の世界では高く知られています。日本陶器の巨匠の一人である荒川氏は、美濃焼の歴史において大きな足跡を残しています。
志野焼は近年まで純粋な日本産では唯一の白い陶器であると考えられていました。そのため荒川氏は彼の著書である「志野、黄瀬戸、瀬戸黒」(1989年発行)の中で、この2つの天目茶碗が志野であると書いています。
志野焼は近年まで純粋な日本産では唯一の白い陶器であると考えられていました。そのため荒川氏は彼の著書である「志野、黄瀬戸、瀬戸黒」(1989年発行)の中で、この2つの天目茶碗が志野であると書いています。
「この長石釉を使った、白いやきものの発見は、日本の陶磁史の上では、かつてない、大きな意味をもつ発見であった。」(07)
この記事では2つの非常に希少な日本の白天目茶碗について注目して取り上げています。その一つは尾張徳川家伝来のもので、もう一つは前田家伝来のものです。これらは和天目ではもっとも古い部類にみなされ、現在伝わっている白天目でも名高いものです。荒川氏は志野焼の歴史の中でも重要な作品として取り上げています。
「志野ではやはり天目茶碗が一番古いこと。伝世の紹鷗(武野紹鴎)所持といわれる二つの名物天目茶碗は、黄瀬戸ふうになっているが、これは裸で強い火に焼かれたためで、長石釉の志野であると、はっきり断言できること。この二つがもっとも古く、定林寺、五斗蒔(どちらも現在の岐阜県土岐市に位置する)あたりの窯で焼かれたのではないかと想像されること。」 (08)
もしこれら二つの茶碗が志野焼であるなら、荒川氏が考えたように、日本の陶器文化を代表する志野焼の極初期の形ということになるでしょう。彼がこれについてかなり確信していると思われる記述があります。
「二つの茶碗が、瀬戸で焼けたか、美濃であるかは、いまのところなんともいえないが、釉薬の点からいって、これは決して黄瀬戸ではない。長石釉である。いくらか灰を混ぜているかもしれないが、特に徳川家のは、おそらくサヤ(09)にいれずに、裸でアラヤキしたものに違いない。窯が小さいので、うわのせに、火前で焼いたに違いないのである。その結果、灰がかかり、その灰に鉄分が入って、黄瀬戸に近い緑色の、ビードロ釉(10)になったのである。」 (11)
荒川氏は上記のように二つの茶碗は一般的な志野とは違うように見えるかもしれないが、志野の釉薬にいくらか灰を混ぜ、火に近い場所で長く焼き、灰がかかってできたものに違いないと考えられたようです。一般的に志野焼では長石釉が使われます。とすると、小名田には長石が採れる場所がなかったのにどうやって釉薬を作ったのだろうと青山氏は疑問を持ちました。
また、荒川氏が著書の中で述べたようにこれらの茶碗が志野焼であるという説が正しいとすれば、志野焼の歴史は、1573年から1600年に渡る安土桃山時代より前から始まっていたということを意味します。桃山時代は、日本の文化・芸術が大きく発展した時代だと広く考えられています。この記事の中では白天目についての違う説について取り上げたいと思います。それは白天目は志野焼ではなく、室町時代にすでに完成されていたという説です。そしてこれは青山氏のホームグラウンドである小名田町が、この歴史の舞台であるとも言われています。
荒川氏はこの二つの白天目について、もう一つ気になることを書いてます。
また、荒川氏が著書の中で述べたようにこれらの茶碗が志野焼であるという説が正しいとすれば、志野焼の歴史は、1573年から1600年に渡る安土桃山時代より前から始まっていたということを意味します。桃山時代は、日本の文化・芸術が大きく発展した時代だと広く考えられています。この記事の中では白天目についての違う説について取り上げたいと思います。それは白天目は志野焼ではなく、室町時代にすでに完成されていたという説です。そしてこれは青山氏のホームグラウンドである小名田町が、この歴史の舞台であるとも言われています。
荒川氏はこの二つの白天目について、もう一つ気になることを書いてます。
「比較的尾張家の方に多く見られるが、小さい、黒いプツプツである。これは、裸で焼いたために、窯のなかで飛び舞う、砂ほこりが付着して、その結果できたものである。」(12)
黒いプツプツについては別の説もありますが、パート2で詳しくお話しすることにしましょう。
今日残っている著名な白天目は3つあります。(藤田美術館蔵のものを入れ4つという説もあります。)それは日本で作られたもので、かつて武野紹鴎が所持していたと伝えられており、現在名古屋の徳川美術館蔵、前田家に伝来していたもので現在個人蔵、神戸の香雪美術館蔵となっています。これらのうち、徳川美術館と前田家伝来のものは日本の重要文化財に指定されています。そしてこれと別に朝鮮で作られたものが徳川美術館に保管されています。
これらの茶碗は、侘茶の素朴でシンプルな精神を体現しています。侘び寂びは、はかなさと不完全さがあって完成します。この世にあるものは全て、経年変化によって、錆びたり、汚れたり、欠けたりします。その変化による独特な美しさを寂びと表現されます。一方、錆びや汚れを受け入れ、楽しむことは詫びといわれます。確かに白天目も経年のために変化しますが、その変化を楽しむのは日本の独特な感性かもしれません。
よく見ると、白天目茶碗の形は完全ではなく、わずかに歪んでいることがわかります。これは、かつて日本で茶道を嗜んでいた上流階級が、美的理想とした中国の伝統とは対照的です。中国では左右対称的なものが良しとされ、日本では歪んだものが理想とされるようになりました。
では朝鮮の白天目はどうでしょう?「近年まで白天目という定義はしっかりと出来ていませんでした。基本的にその色は一番大事な要素でした。例えば朝鮮の白天目は他の意味でもかなり違うと言えます。まず、朝鮮と日本の白天目は形から違います。」青山氏は資料写真を見せながら説明し、朝鮮の茶碗の形が底部から口縁までシャープな曲線を描いているところを示しました。
現在伝わっている日本製の白天目は底部から途中まで曲線を描き、そこから口縁までは少し窄んでいる特徴があります。
青山氏の説明によると朝鮮と日本の白天目には他にも大きな違いがあるそうです。朝鮮の白天目は一見白く見えますが、実は赤い土で作られていて、その上に化粧土と言われる白い土で覆われています。そしてその上に釉薬がかけられています。一方日本のものは土台から白い土が使われていて、化粧土は施さなくても白く仕上がってます。
白天目の起源
このサイトでは著作権上の理由から、美術館蔵および個人蔵の白天目の画像を使用することができません。
かつて尾張徳川家の所有であった白天目をご覧になりたい方は下のリンクをクリックしてください。これはこの記事の中で取り上げている白天目です。
かつて尾張徳川家の所有であった白天目をご覧になりたい方は下のリンクをクリックしてください。これはこの記事の中で取り上げている白天目です。
いつ、どこでこの白い焼き物が作られたのでしょう?茶の湯名碗によると有名な日本の茶人である武野紹鴎(1502 - 1555)は、上に述べた日本製の3つの白天目(13)を所持していたと書かれています。彼は、茶道に従事している人たちが、中国や朝鮮から入ってきていたものから、日本独自で作られた茶道具に転換し始めた時代に生きた人でした。大阪堺の裕福な商人であった紹鴎は高価な茶器を手に入れるようになり、侘茶の世界の強力な擁護者となりました。彼の持っていたとされる白天目は中国の灰被天目であったと考えている人もいます。一方では日本で作られたものだと考えている人もいます。青山氏は後者の考えを支持しています。
「中国にはたくさんの天目茶碗の種類がありますが、白いものも私の知る限りでは稀にみられます。今日では武野紹鴎が持っていたと言われる白天目は日本で作られたと考えている人が多いのです。この理論の支持者には、徳川美術館、藤田美術館、神戸の香雪美術館などがあります。」と青山氏は言います。
青山氏は白天目が日本製のもので、小名田で作られた焼物ではないかと推測し、その再現に尽力しました。小名田(所在地のGoogleマップを参照)の発掘調査結果は、その歴史を新しく塗り替えてくれるようです。これらの発見に基づいて、彼は地元の粘土を使い、その時代の技術を駆使して、何十年にもわたって再現しました。再現された作品はこの記事のテーマである2つの美術館所有の作品ととても似ています。
「中国にはたくさんの天目茶碗の種類がありますが、白いものも私の知る限りでは稀にみられます。今日では武野紹鴎が持っていたと言われる白天目は日本で作られたと考えている人が多いのです。この理論の支持者には、徳川美術館、藤田美術館、神戸の香雪美術館などがあります。」と青山氏は言います。
青山氏は白天目が日本製のもので、小名田で作られた焼物ではないかと推測し、その再現に尽力しました。小名田(所在地のGoogleマップを参照)の発掘調査結果は、その歴史を新しく塗り替えてくれるようです。これらの発見に基づいて、彼は地元の粘土を使い、その時代の技術を駆使して、何十年にもわたって再現しました。再現された作品はこの記事のテーマである2つの美術館所有の作品ととても似ています。
小名田での発見
日本で使われだした初期の天目茶碗は中国から輸入したもので、唐物と呼ばれています。日本独自の作品は美濃地方に隣接する瀬戸で13世紀に始まりました。美濃地方にある多治見市では窯業の歴史は7世紀まで遡ることができます。多治見の小名田には良い土があったので、いくつかの窯が作られました。「効率的な輸送機能が整備されていない時代には、窯を作る際には近くで焼物を作る土が採れるいうことが大事なことでした。」と青山氏は説明しました。15世紀から天目茶碗の生産は美濃で始まりましたが、この辺りで作られた最初の天目茶碗は古瀬戸系の焼物の窯で作られました。
美濃では白い陶器を作るために2種類の釉薬が使われていました。一つは白い志野焼を作るために長石を主成分とした釉薬で、もう一方は灰釉でこれもまた白い茶碗が出来ます。発掘調査によると、美濃地方の下石西山窯と他の窯は、灰釉の白い茶碗を生産していたようです。16世紀から天目茶碗の生産が小名田で始まりました。小名田窯下窯と小名田白山神社窯では鉄釉と灰釉を使っていて、灰釉はこの記事で取り上げている白天目茶碗をもたらしました。
美濃では白い陶器を作るために2種類の釉薬が使われていました。一つは白い志野焼を作るために長石を主成分とした釉薬で、もう一方は灰釉でこれもまた白い茶碗が出来ます。発掘調査によると、美濃地方の下石西山窯と他の窯は、灰釉の白い茶碗を生産していたようです。16世紀から天目茶碗の生産が小名田で始まりました。小名田窯下窯と小名田白山神社窯では鉄釉と灰釉を使っていて、灰釉はこの記事で取り上げている白天目茶碗をもたらしました。
前述にあるように、志野焼の権威として広く知られている荒川豊三氏は白天目は志野であると考えています。これは今日欧米でも一般的に広まっている見解です。しかしながらそうではないという別の意見も早くからありました。1976年に楢崎彰一氏(14)は美濃の作陶技術の発展について解説しています。室町時代後半、新しい技術進化がありました。やはりこの時代も伝統的な灰釉と鉄釉がありましたが、白い焼物を作る新しい技法も出てきたと彼は書いています。しかしこの新しい焼物は、彼の見解では志野ではないと書かれています。
「灰釉の系列では大窯採用による高火度焼成に対応して、 灰釉の流れ止め剤として珪石を混じ始めたが、この新釉剤は高温による灰と長石の分離から、しばしば釉面の白色化をみるものが現れた。 尾張徳川家や加賀前田家に伝わった武野紹鴎所持の白天目茶碗はこの系列の釉薬であって、志野ではない。」
楢崎彰一 『美濃の古陶』(15)
「灰釉の系列では大窯採用による高火度焼成に対応して、 灰釉の流れ止め剤として珪石を混じ始めたが、この新釉剤は高温による灰と長石の分離から、しばしば釉面の白色化をみるものが現れた。 尾張徳川家や加賀前田家に伝わった武野紹鴎所持の白天目茶碗はこの系列の釉薬であって、志野ではない。」
楢崎彰一 『美濃の古陶』(15)
1994年に小名田では緊急発掘調査が行われました。道路建設工事が進められていたため、そこに眠っている窯跡を破壊する恐れがあったからです。そして小名田窯下窯6号からたくさんの白天目のかけらが発見されました。すぐにそれらはここまで述べてきた国宝に定められている日本製の二つの白天目に関係しているのではないかと推測され始めました。二つの天目茶碗は小名田で作られていたのでしょうか?
この問題について議論した2つのグループがあります。一つのグループは白天目には長石釉が使われていたと考え、もう一方のグループでは灰釉が使われていたと考えていました。使われた釉薬を研究することによって美術館所有の白天目の起源を突き止めることは可能だったのでしょうか?そもそも確実な調査方法があるのでしょうか?青山氏はこの二つの白天目茶碗は小名田で作られたものだと推測し、その事実を証明する実証的証拠と学術的証拠の両方を作成するために学者と協力して、白天目の製作方法を再現する作業を始めました。
この物語の背景については、美濃焼を代表する志野と織部につながった発展についての「美濃焼ルネッサンスのルーツ」を読んでださい。
Notes
01 Picture owned by the Tokyo National Museum, "Tsuginami Fūzoku, Hakkyku Isseki no Uchi" (ja: 月次風俗 8曲1隻の内), published in "The Kencha Tea Ceremony Picture Collection" (ja: 献茶の湯絵画資料修正), Heibonsha, 1992.
02 "The Kencha Tea Ceremony Picture Collection" (ja:献茶の湯絵画資料修正), Heibonsha, 1992. Kencha (献茶) is a tea ceremony held in front of a Shinto shrine, while Kūcha (供茶) is the name for a ceremony in front of a Buddhist temple.
03 Ibid, quoted on web site published by the Tea House Bokushinan (ja: 卜深庵木津家) at http://bokushinan.com/research/5_ippukuissen.html
04 The Shichiju-ichiban shokunin utaawase (ja:七十一番職人歌合), or "71 Artisans Poetry Contests" were medieval art contests were artisans were the subjects, such as pictures of artisans in conversation or hawking their wares.
05 Rinsenji (ja: 臨川寺)is a temple in Ukyoku ward, Kyoto. It belongs to the Rinzaishū (ja: 臨済宗) school, one of the three sects of Zen in Japan.
06 Toyozo Arakawa (荒川 豊蔵 Arakawa Toyozō, March 21, 1894 - August 11, 1985). Japanese ceramic potter who discovered that Shino and Oribe glazed work of the Momoyama and early Edo period in Japan had been manufactured in Mino rather than in the Seto area. Arakawa was given the title "Living National Treasure" in 1955.
07 “Shino, Kiseto, Setoguro” (ja: 志野・黄瀬戸・瀬戸黒), Heibonsha, book 11 of 28 in the series “Nihon Tougei Taikei” (ja: 日本陶磁大系), 1989, Toyozō Arakawa, Junichi Takeuchi, p. 89 単行本 – 1989/7/1 荒川 豊蔵 (著), 竹内 順一 (著)
08 Ibid, p. 89
09 Saya are vessels made from highly heat resistant fire clay. By using saya it is possible to fire more items at a time. It is also used to protect the pottery from exessive firing. 焼成時に窯内に器物をできるだけ多く、また保護する目的で窯積みに用いる耐火粘土製の容器
10 Vidro-glaze (portuguese for “glass”: vidro) is a glazing that occur naturally when ash from the burning wood falls onto the pottery. ビードロ釉があります。これは燃料である薪の灰が降りかかった自然の釉薬(自然釉)とされます。ビードロ(vidro:ポルトガル語)とはガラスの事をいい「硝子」の字が当てられます。
11 “Shino, Kiseto, Setoguro” (ja: 志野・黄瀬戸・瀬戸黒), Heibonsha, book 11 of 28 in the series “Nihon Tougei Taikei” (ja: 日本陶磁大系), 1989, Toyozō Arakawa, Junichi Takeuchi, p. ? 単行本 – 1989/7/1 荒川 豊蔵 (著), 竹内 順一 (著)
12 Ibid, p. 91
13 The Tokugawa Shiro Tenmoku is presented on page 28 in the companion book to the 1992 exhibition “Cha no Yu Meiwan” (ja: 茶の湯名碗), ("Master Tea Bowls - The Beauty of Pottery in the Momoyama Period"). “This item,” writes the authors, “was according to tradition once in the possession of Takeno Joo.”
14 Shōichi Narasaki (ja: 楢崎, 彰一) (1925-2010), held positions at at the Department of Archaeology, Nagoya University and later as Director, Aichi Prefecture Ceramics Museum, Seto City.
15 “The Development of Ancient Mino ware” (ja: Mino no Nagare, 美濃古陶の流れ), p9, published in the anthology “Ancient Mino ware” (ja: Mino no kotō, (ja: 美濃の古陶), Kyōto-shi : Kōrinsha Shuppan, 1976.
02 "The Kencha Tea Ceremony Picture Collection" (ja:献茶の湯絵画資料修正), Heibonsha, 1992. Kencha (献茶) is a tea ceremony held in front of a Shinto shrine, while Kūcha (供茶) is the name for a ceremony in front of a Buddhist temple.
03 Ibid, quoted on web site published by the Tea House Bokushinan (ja: 卜深庵木津家) at http://bokushinan.com/research/5_ippukuissen.html
04 The Shichiju-ichiban shokunin utaawase (ja:七十一番職人歌合), or "71 Artisans Poetry Contests" were medieval art contests were artisans were the subjects, such as pictures of artisans in conversation or hawking their wares.
05 Rinsenji (ja: 臨川寺)is a temple in Ukyoku ward, Kyoto. It belongs to the Rinzaishū (ja: 臨済宗) school, one of the three sects of Zen in Japan.
06 Toyozo Arakawa (荒川 豊蔵 Arakawa Toyozō, March 21, 1894 - August 11, 1985). Japanese ceramic potter who discovered that Shino and Oribe glazed work of the Momoyama and early Edo period in Japan had been manufactured in Mino rather than in the Seto area. Arakawa was given the title "Living National Treasure" in 1955.
07 “Shino, Kiseto, Setoguro” (ja: 志野・黄瀬戸・瀬戸黒), Heibonsha, book 11 of 28 in the series “Nihon Tougei Taikei” (ja: 日本陶磁大系), 1989, Toyozō Arakawa, Junichi Takeuchi, p. 89 単行本 – 1989/7/1 荒川 豊蔵 (著), 竹内 順一 (著)
08 Ibid, p. 89
09 Saya are vessels made from highly heat resistant fire clay. By using saya it is possible to fire more items at a time. It is also used to protect the pottery from exessive firing. 焼成時に窯内に器物をできるだけ多く、また保護する目的で窯積みに用いる耐火粘土製の容器
10 Vidro-glaze (portuguese for “glass”: vidro) is a glazing that occur naturally when ash from the burning wood falls onto the pottery. ビードロ釉があります。これは燃料である薪の灰が降りかかった自然の釉薬(自然釉)とされます。ビードロ(vidro:ポルトガル語)とはガラスの事をいい「硝子」の字が当てられます。
11 “Shino, Kiseto, Setoguro” (ja: 志野・黄瀬戸・瀬戸黒), Heibonsha, book 11 of 28 in the series “Nihon Tougei Taikei” (ja: 日本陶磁大系), 1989, Toyozō Arakawa, Junichi Takeuchi, p. ? 単行本 – 1989/7/1 荒川 豊蔵 (著), 竹内 順一 (著)
12 Ibid, p. 91
13 The Tokugawa Shiro Tenmoku is presented on page 28 in the companion book to the 1992 exhibition “Cha no Yu Meiwan” (ja: 茶の湯名碗), ("Master Tea Bowls - The Beauty of Pottery in the Momoyama Period"). “This item,” writes the authors, “was according to tradition once in the possession of Takeno Joo.”
14 Shōichi Narasaki (ja: 楢崎, 彰一) (1925-2010), held positions at at the Department of Archaeology, Nagoya University and later as Director, Aichi Prefecture Ceramics Museum, Seto City.
15 “The Development of Ancient Mino ware” (ja: Mino no Nagare, 美濃古陶の流れ), p9, published in the anthology “Ancient Mino ware” (ja: Mino no kotō, (ja: 美濃の古陶), Kyōto-shi : Kōrinsha Shuppan, 1976.