江戸時代の五平餅
五平餅のレシピからその起源をのぞいてみよう
By hans o. karlsson
昔の普通の人々はどんな生活をしていたんだろう?この疑問はいつも私の頭の中に浮かんでいました。私は自分の人生の半分を日本で暮らしているので(今月60歳になりますが・・・)、普通の日本人は各時代時代でどのような暮らしをしていたのかとても気になっていました。その中でも特に興味深く感じる時代は江戸時代で、この時代はそれまでの戦さが絶えない時代に比べ、豊かで平和だったと言います。少なくとも江戸やその他の大きな都市ではそうだったのでしょう。そこに住む人々はバラエティに富んだ食べ物を楽しめるようになったのです。
しかしながら人口の80〜90%は農民でした。その中でももっと時代遅れの貧しい地域に住んでいた人もいました。私の想像では、その時代の農民の生活は毎日最小限のカロリーしかとれなかったと思います。
美味しくて栄養のある食べ物の五平餅を、この時代の農民が作る事が出来たのでしょうか?
五平餅はどんなもの?
五平餅の事を全く知らないというのはあなただけではないでしょう。最近TVドラマで取り上げられるまで、日本でもこの伝統的な食べ物を知らない人が多かったのです。五平餅は実にローカルな食べ物なのです。この食べ物の情報や作り方をもっと知りたいなら、この記事の動画を見てくださいね。簡単に説明すると、この栄養価の高い美味しい食べ物は、ざっくりとついたご飯を大きめの平たい形か、小さめの団子状にし、串に刺し、甘いタレをかけて焼いたものです。焼きたてはとても美味しく、簡単なランチとしてもちょうどいい感じです。
五平餅をもっと楽しむには五平餅の伝統がある地域を旅行するのが最高でしょう!この記事では多治見の五平餅やさんをいくつか紹介しています。でも、多治見まで来られない人という人は家で作ることもできますよ。
五平餅をもっと楽しむには五平餅の伝統がある地域を旅行するのが最高でしょう!この記事では多治見の五平餅やさんをいくつか紹介しています。でも、多治見まで来られない人という人は家で作ることもできますよ。
五平餅はどんなもの?
五平餅は日本の本州の真ん中あたりの地域でよく見られる甘いおやつです。これが初めて登場したのが江戸時代中期以降と言われています。この時代の江戸という名前は、現在の東京である江戸に幕府を開いたことに由来します。
五平餅の伝統地域は、現在の県で言えば岐阜、愛知、長野の隣り合う3県に広がっています。ネット上で五平餅について色々と調べましたが、この美味しい食べ物が生まれた場所は岐阜県と長野県の山深い県境辺りだったようです。この2つの県、特に長野県は山に囲まれ農民たちが田畑を作って暮らしている土地でした。五平餅のタレにはクルミを代表するナッツ類が含まれていますが、これは近くの山々で採集できたのでしょう。ある地域ではタレにコクを出すためにヘボ(蜂の子)を入れるようです。こういった山深い地域では、タンパク質を取るために虫を食べる習慣があります。タレに加えるものは他に、砂糖、日本酒といったものですが、江戸時代にそれらを手に入れるのは難しかったでしょう。しかし、この時代には中山道という江戸と京都を結ぶ主要道路があり、高級食材を運搬するにもこの道を通るため、五平餅に必要な材料も手に入ったと考えられます。
五平餅の伝統地域は、現在の県で言えば岐阜、愛知、長野の隣り合う3県に広がっています。ネット上で五平餅について色々と調べましたが、この美味しい食べ物が生まれた場所は岐阜県と長野県の山深い県境辺りだったようです。この2つの県、特に長野県は山に囲まれ農民たちが田畑を作って暮らしている土地でした。五平餅のタレにはクルミを代表するナッツ類が含まれていますが、これは近くの山々で採集できたのでしょう。ある地域ではタレにコクを出すためにヘボ(蜂の子)を入れるようです。こういった山深い地域では、タンパク質を取るために虫を食べる習慣があります。タレに加えるものは他に、砂糖、日本酒といったものですが、江戸時代にそれらを手に入れるのは難しかったでしょう。しかし、この時代には中山道という江戸と京都を結ぶ主要道路があり、高級食材を運搬するにもこの道を通るため、五平餅に必要な材料も手に入ったと考えられます。
ウォーク・ジャパンの記事によると「江戸時代の新しい研究が始まりました。それは、ゆっくりとした成長が大都会の中心地での支配であったかもしれないことを示し始めました。小都市や多くの農村地域では、経済は江戸時代を通して変化と成長を続けました。[...] 中山道沿いで [...] 近江商人は商業農業と農村産業を奨励しました。江戸時代の終盤では木曽の馬籠のような貧しい宿場町が裕福な家を支えていたのです。」
この商業主要道路から恩恵を受ける宿場町がたくさんありました。このような場所では、裕福な商人や農民は、時折贅沢に五平餅を食べ、そしておそらくこの道を通る旅人もそれを楽しんでいたはずです。しかし、後者は私の純粋な想像です。今日中山道沿いの古い宿場町には五平餅のお店があります。しかし江戸時代にはどうだったのか、もう少しリサーチをする必要があります。例えばあなたがもし、江戸時代の宿場町を保存している中山道六十九次の42番目の妻籠宿に行ったら、宿場町の道沿いにいくつか五平餅屋さんを見かけることでしょう。この町は五平餅の分布地域のど真ん中にあります。この地域にこのレシピを考えた人がいたのでしょうか?それは商売人でしょうか?
五平餅が出来たワケ
よく知られている定説では、五平餅の起源は中山道の旅人へ売るためのお菓子として作られたとは言われていません。
3つほど考えられている定説では
五平餅は最初、儀式のお供え物として考案され、そのうちに人々が栄養を取るため、またおやつとして売られるようになったと考えられるかもしれません。しかしこういった地域でも特に貧しい村々であったこと、そしてこの食べ物の主要材料の白いお米は江戸時代中期以降も贅沢なものだということに注目したいと思います。
3つほど考えられている定説では
- 神様へのお供え物
- 山の中で仕事する木こりのお弁当。
- 「五平」という名前の人が考えた。
五平餅は最初、儀式のお供え物として考案され、そのうちに人々が栄養を取るため、またおやつとして売られるようになったと考えられるかもしれません。しかしこういった地域でも特に貧しい村々であったこと、そしてこの食べ物の主要材料の白いお米は江戸時代中期以降も贅沢なものだということに注目したいと思います。
江戸時代に使われた材料
現在の五平餅の基本材料は
この材料は全て江戸時代から日本にあるものです。このリストの中で最も外来のものはおそらくピーナッツでしょう。ピーナッツと同種の南京豆が最初に日本に輸入されたのは1706年のことです。ゴマは紀元前から日本で消費されていました。その他の材料も日本で長い歴史を持ったものばかりです。
水- 白米
- くるみ
- ピーナッツ
- 白ごま
- 日本酒
- 醤油
- みりん
- きび砂糖
- 味噌
この材料は全て江戸時代から日本にあるものです。このリストの中で最も外来のものはおそらくピーナッツでしょう。ピーナッツと同種の南京豆が最初に日本に輸入されたのは1706年のことです。ゴマは紀元前から日本で消費されていました。その他の材料も日本で長い歴史を持ったものばかりです。
おそらく原材料を詳しく調べることで、五平餅がどのように出来たのかについての手がかりを掴むことができそうです。白米と日本酒は江戸時代の普通の人々にとって高価なものでした。そのため農民は普段ドブロクを飲んでいました。ジャパン・タイムズの記者のメリンダ・ジョーは「素朴な日本酒の伝統の復活」という記事の中でドブロクについて「にごり酒のような漉されていない酒は何世紀もの間、地方の農民が作ってきました。」と述べています。砂糖は、ある記述によるととても高価で手に入りにくかったと書かれていますが、別の記述では、砂糖の値段が下がってきて、都市部の労働者たちは貧弱な食事にカロリーを加えるために砂糖を買ったとも書かれています。砂糖とみりんは五平餅の味にコクを出すために、日本酒の代わりに使われます。ヘボ(蜂の子)は先ほど書いたように、同じくコクを出すために入れますが、これは山で採れるのでお金がかかりません。
とにかく五平餅のルーツになっているだろう日本の山岳地帯の普通の農民たちは、私達が使った材料の大部分を手に入れることができたようですが、このリッチな食べ物は神様のための春分や秋分のお祭りといった、特別な時しか作られなかっただろうと思われます。日本人のブロガーは「おそらく神様への儀式が終わった後、農民たちは食べたのではないか。」と言っています。五平餅のレシピは様々あり、そのコストを抑えて作ることも可能です。特に日本酒による旨味を加えたい時は、みりんや砂糖で代用することもできます。
農民たちが封建社会の中で歴史的に抑圧され、米で支払う重い税を負担していたとしても、この状況は江戸時代中期までにある程度変化したことに注目してみたいと思います。この頃の農民たちは決まった量だけの米を払うように、税の支払いが変化していたので、余った米は自分たちのところに残すことができました。材料に米が不可欠な五平餅がこの世の中に出始めた時代は、こんな時期のことでした。
五平餅のまとめ
ここで最初の疑問に戻ってみましょう。岐阜や長野の山間部のつつましい暮らしの農民たちが、この贅沢な食べ物を作り上げることが出来たのでしょうか?私は出来たと思っていますが、おそらく平均的な農民たちより、少し裕福な農民たちが作ったのでしょう。彼らは多分砂糖やにごり酒のような普通の農民たちが手に入れにくい材料も集められたと考えられます。この部分についての詳しいことは無料のeブック版で紹介しています。
五平餅の分布地には、この高カロリーのおやつがどのようにして誕生したかについて様々な説が伝えられている場所がたくさんあります。この起源についてたくさん研究している五平餅学会なるグループさえあるのです。歴史から紐解くと、裕福な人たちはおそらく一般の農民よりも、そしてもっと頻繁に、もっと美味しい五平餅を楽しむことができたのでしょう。しかし、最もつつましい地位の農民たちでさえそのような贅沢を手に入れることができるのは、おそらくその時代以前ではなかったと思われます。それでも、江戸時代の農民の生活は農作物の出来が全てだったので、それを神様に願うために出来るだけいいお供え物をしたことでしょう。五平餅が出現した偶然は、同時期に経済状況が良くなったという必然からも来ているのです。この長く愛されているおやつは生まれるべくして生まれたのです。
多治見は初めて五平餅を食べるために岐阜に訪れる旅行者にとってぴったりの場所です。私たちの住む多治見市は五平餅だけでなく、県内でも様々な歴史的、文化的な宝物がたくさんある町です。名古屋から電車に乗って、多治見の素敵な五平餅のお店に来てみてください。そうしたら、私が話したことを実感してもらえると思いますよ。
五平餅の分布地には、この高カロリーのおやつがどのようにして誕生したかについて様々な説が伝えられている場所がたくさんあります。この起源についてたくさん研究している五平餅学会なるグループさえあるのです。歴史から紐解くと、裕福な人たちはおそらく一般の農民よりも、そしてもっと頻繁に、もっと美味しい五平餅を楽しむことができたのでしょう。しかし、最もつつましい地位の農民たちでさえそのような贅沢を手に入れることができるのは、おそらくその時代以前ではなかったと思われます。それでも、江戸時代の農民の生活は農作物の出来が全てだったので、それを神様に願うために出来るだけいいお供え物をしたことでしょう。五平餅が出現した偶然は、同時期に経済状況が良くなったという必然からも来ているのです。この長く愛されているおやつは生まれるべくして生まれたのです。
多治見は初めて五平餅を食べるために岐阜に訪れる旅行者にとってぴったりの場所です。私たちの住む多治見市は五平餅だけでなく、県内でも様々な歴史的、文化的な宝物がたくさんある町です。名古屋から電車に乗って、多治見の素敵な五平餅のお店に来てみてください。そうしたら、私が話したことを実感してもらえると思いますよ。